Etienne-Emile Baulieu

 

1926年、フランス、ストラスブールに産まれた。父親Leon Blumはユダヤ系の内科医で、糖尿病の治療における独立した医学研究の開拓者の一人で、インシュリンでの臨床試験を行った開拓者の一人だった。その最初の子として産まれ、妹が二人いた。母Therese Lionはコンセルヴァトワール方式の古典的なピアニストで、英語と法律で上級学位を取得し、結婚前は英国で女性の参政権獲得の運動家であった。

1930年、彼が4歳のときの父の突然の死をきっかけとして、母と子供達はパリへと引っ越した。

第二次世界大戦でナチス政権のドイツがフランスの一部を支配下においたので、Blum一家は未だナチス・ドイツに占領されていなかった地区のパリから、未だナチス政権の支配下にないGrenobleへと避難した。彼はLycee Champollionで学んだ。

彼は共産党員に支配されたグループの活動家になった。又、ゲシュタポが近づいてきたので、一家はHaute-Savoieの中のAnnencyに再び移りました。

1942年に、彼は反ユダヤのナチス政権から、ユダヤ人の父親Blumの性を隠すため、偽の未分証明書の名Baulieu を手に入れ、それ以来ずっとその名を名乗っている。

終戦の1945年、彼は1944年10月に偽名で登録していた医学部での研究を正式に始めた。というのも、以前はストラスブールがナチス・ドイツ政権に占領されたいたから、本当のユダヤ名が使えなかったのだ。

医学の学位及び科学での博士号を取得後、パリの病院で1951年から1955年にかけてインターンとして働いた。そこで彼は一生消えない出来事を目撃した。自分で中絶しようとした結果、思い感染症を患ったり、内面をやんだりする女性たちを目撃し、彼の一生消えない心の傷となった。彼女たちのほとんどが、麻酔もかけられずに子宮を削られた。従来の医者たちは、そのような女性たちは罰されて当然と考えていて「彼女に教育を施してやれ。そうすれば彼女も忘れずにいつまでも覚えているだろう」と、Baulieuにも指導した。

パリで医学部教授だったBaulieuは、'60年代中頃に、ジュネーブ、スイスに本拠がある世界保健機構のメンバーになりました。「ジュネーブ会議で、私は貧しい国々の避妊薬の不足に関する絶望を引用する報告書に没頭していました... 私は、自分の研究所におけるオリジナルの研究を備えた新方式の開発を夢見ました」

彼は1970年にインドへ旅行をし、自分で調節できない妊娠から生じた苦痛を数多く目撃したところで、彼の決定を強化しました。

フランスの製薬会社 Roussel-Uclaf で医学の研究者として採用された彼は、RU-486の最初の臨床試験の指揮をとり、それが妊娠初期なら終了する際に80%有効であることを発見しました。

1985年に、フランス厚生大臣Claude Evin、「RU486」の販売を認可。

1ヶ月後、RU486は市場から撤収された。パリのローマカトリック教の大僧正や、反中絶の活動家たちによる公式な非難、彼らは「RU486」を「科学兵器」と呼んだ、及びRoussel-Uclafへの購買拒否、社員への私的制裁などへの恐れからだった。

その2日後、フランス厚生大臣Claude Evinによって、その決定は却下されました。彼の言い分は「私は、女性から、医学の進歩を表す製品を取り上げるような中絶論争を許可できなかった」「その瞬間から、その薬品にたいする政府の承認は認められ、RU-486は女性による道徳の資産となるのです。決して製薬会社の資産ではないのです」

BaulieuU-486に関する世界中への疲れ知らずの宣伝活動家であり配布者です。「私は今までずっと、女性は生殖を管理すべきだと考えてきました。私は、科学者や内科医が、必ず中絶反対派だとは考えてはいません」

Baulieu は1947年に結婚し、3人の子供がいて、パリ近郊に家を構えている。

 

  Baulieu年表  
1920   7月23日フランスで中絶と避妊の宣伝を禁止する法案が可決。
1926 フランス、ストラスブールに産まれた。ユダヤ系の内科医Leon Blumの最初の子として産まれた妹二人。母Therese Lionは古典的なピアニストで、英国では女性の参政権獲得の運動家であった。  
1939    
1945 パリに戻り、正式に医学部で研究  
1947 Yolande Compagnonと結婚  
1951−1955 パリの病院でインターン。自分で中絶した女性たちの後遺症や、古い考えの医師たちが不道徳な女性を処罰するかのように麻酔もかけずに中絶手術するのにショックを受けた。  
1960年代 Baulieuスイスのジュネーブに本拠がある世界保健機構のメンバーになった。  
1967    フランスで避妊容認の法律
1971    フランスでは『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌(1971年4月5日号)に、シモーヌ・ド・ボーボワール、フランソワーズ・サガン、カトリーヌ・ドヌーブ、マルグリット・デュラス、ジャンヌ・モロー、ジゼール・アリミなどが「私たちも中絶をした」と刑法堕胎罪を告発し、避妊と中絶の権利を求めた「343人の宣言」が掲載。
1972   フランスで出生前診断開始。胎児が身体障害者などの場合は中絶容認。胎児が健康な場合は中絶はダメだったけど。

フランスで10月11日、当時17才のごく普通の女子高生マリ=クレールが強姦されヤミ中絶をした罪で、ボビニ少年裁判所に出頭。この事件はマスコミで大々的に騒がれ、中絶合法化へとすすむようになった。

1975   フランスで中絶が5年間の時限立方として成立。
1979   フランスで5年間の時限立方として成立した中絶法が若干の改正を経て恒久立法となった。
1980 フランスで Etienne-Emile Baulieu 博士が、自然な流産を誘発する抗プロゲステロン作用を持つ人工妊娠中絶薬が開発。フランスの会社ルーセル・ウラア(Roussel-Uclaf)社の名をとって「RU486」と命名。ちなみにその会社はドイツの会社ヘキストAG社が出資している。  
     
     
1985   フランス厚生大臣Claude Evin、「RU486」の販売を認可。
1988   10月フランスで自然な流産を誘発する抗プロゲステロン作用を持つ人工妊娠中絶薬「RU486」が認可。
中国でも認可。
1990 a Commander of the French Legion of Honor and a Chevalier of the French National Order of Merit(フランスのレジオンドヌールの上級勲爵士、及びフランス国益の勲爵士)」の栄誉に称えられた。