歴代受賞者 | ||||||
1901年 |
シュリ・プリュドム | フランス | 詩 | |||
1902年 | テオドール・モムゼン | ドイツ | 歴史 | |||
1903年 | ビョルンスティエルネ・ビョルンソン | ノルウェー | 詩 | |||
1904年 | フレデリック・ミストラル | フランス | 詩 プロヴァンス語で創作。 |
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1904年 | ホセ・エチェガライ・イ・エイサギーレ | スペイン | 戯曲 | |||
1905年 | ヘンリク・シェンキェヴィチ | ポーランド | 小説 | |||
1906年 | ジョズエ・カルドゥッチ | イタリア | 詩 | |||
1907年 | ラドヤード・キップリング | イギリス | 小説 | フリーメイソン 雑誌「メソニック・イラストレイテッド」誌によると、キプリングは通常最低年齢の21歳より6か月早くフリーメイソンとなった。彼はラホールの希望と忍耐のロッジナンバー782として入会を許された。彼は後になってタイムズ紙に「数年間はロッジの秘書を務め、そこには4派のキリスト教会が含まれていた。私はムハマンドに認められて、ブラフモ・サマージ、ヒンドゥー教徒のフェロー・クラフト相当のメンバーに弟子としてなり、また英国人としてはマスター・メイソンに昇進した。私たちの指導者はユダヤ人だった。」と書いている。キプリングはフリーメイソンでの経験を愛し、記憶している理想について彼の有名な詩The Mother Lodgeの中で表している。 |
ホモ説 | |
1908年 | ルドルフ・クリストフ・オイケン | ドイツ | 哲学 | |||
1909年 | セルマ・ラーゲルレーヴ | スウェーデン | 小説 女性初 |
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1910年 | パウル・フォン・ハイゼ | ドイツ | 小説 | ユーリエ・ザーリンクはフェリックス・メンデルスゾーンとも親類に当たる宮廷御用達のユダヤ人大宝石商の名家出身。 | ||
1911年 | モーリス・メーテルリンク | ベルギー | 戯曲・詩 | ベルギーの詩人、劇作家、随筆家。正式名はメーテルリンク伯爵モーリス・ポリドール・マリ・ベルナール
(Maurice Polydore Marie Bernard, comte de Maeterlinck)。日本では「メーテルランク」「マーテルランク」などとカタカナ転写されることもあるが、本人の母語であるフランス語では「メーテルリンク」
、もうひとつの母国語であるオランダ語では「マーテルリンク」 に近い発音となる。 1889年に最初の戯曲『マレーヌ姫 ('La princesse Maleine)』でフィガロ紙の文芸評論家オクターヴ・ミルボーの評価を得て有名になる。続いて宿命論と神秘主義に基づいた、『L'Intruse』『三人の盲いた娘たち (Les Aveugles)』『ペレアスとメリザンド (Pelleas et Melisande)』といった一連の象徴主義的作品を書き表した。 しかし最も大きな成功作は『青い鳥 (L'Oiseau bleu)』だった。1911年にノーベル文学賞を受賞。作品の主題は「死と生命の意味」だった。 1895年から1918年まで歌手のジョルジェット・ルブラン(アルセーヌ・ルパンの生みの親である作家モーリス・ルブランの妹)と関係を持っていた。1919年にルネ・ダオンと結婚し、共にアメリカ合衆国に渡った。1920年にはレオポルト勲章を受章した。 1926年に『白蟻の生活 (La Vie des Termites)』を発表したが、同作は南アフリカの詩人および科学者のユージーン・マレースの作品『The Soul of the White Ant』の盗作だと批判された。 1930年にフランスのニースで城を買い取り、これに「オルラモンド (Orlamonde)」と命名した(自作『Quinze Chansons』に由来)。1932年にはベルギー国王アルベール1世によって伯爵位が叙爵され、メーテルリンク伯となった。 母国滞在中に欧州で第二次世界大戦が勃発すると、彼はナチス・ドイツのベルギー・フランス両国に対する侵攻を避けリスボンへ逃れ、更にリスボンからギリシャ船籍の貨客船でアメリカに渡った。彼は『タイムズ』紙に「私は自著『Le Bourgmestre de Stillemonde』の中で、1918年のドイツによるベルギー占領を批判的に書いたが、これでドイツ軍は私のことを仇敵と見なすようになった。私がもし彼らに捕らえられたら即座に射殺されたかもしれない」と語っている。また、ドイツとその同盟国であった日本には決して版権を渡さないよう、遺言で書き記している。 戦後ニースへ戻り、同地で死去。 国際ペンクラブ第4代会長(在任1947〜49年)。 ジョルジェット・ルブラン(Georgette Leblanc)(1875年-1941)は両性愛者だったとされている。 |
ホモ説 | |
1912年 | ゲアハルト・ハウプトマン | ドイツ | 戯曲 | |||
1913年 | ラビンドラナート・タゴール | インド | 詩 ベンガル語で創作。 アジア人初 |
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1914年 | 受賞者なし | |||||
1915年 | ロマン・ロラン | フランス | 小説 | ホモ説 | ||
1916年 | ヴェルネル・フォン・ハイデンスタム | スウェーデン | 詩 |
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1917年 この年は受賞者2人 |
カール・ギェレルプ | デンマーク | 詩 |
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1917年 この年は受賞者2人 |
ヘンリク・ポントピダン |
デンマーク | 小説 | |||
1918年 | 受賞者なし | |||||
1919年 | カール・シュピッテラー | スイス | 詩 | |||
1920年 | クヌート・ハムスン | ノルウェー | 小説 | |||
1921年 | アナトール・フランス | フランス | 小説 | |||
1922年 | ハシント・ベナベンテ | スペイン | 戯曲 | 87歳で生涯独身のまま死去した。多くの資料が、彼を同性愛者だったとしている。 | ||
1923年 | ウィリアム・バトラー・イェイツ | アイルランド | 詩・戯曲 | イギリスの神秘主義秘密結社黄金の暁教団(The Hermetic Order of the Golden Dawn)のメンバーでもある。神秘主義的思想をテーマにした作品を描き、アイルランド文芸復興を促した。 |
ホモ説 | |
1924年 | ヴワディスワフ・レイモント | ポーランド | 小説 | |||
1925年 | ジョージ・バーナード・ショー | アイルランド | 戯曲 | ホモ説 | ||
1926年 | グラツィア・デレッダ | イタリア | 小説 | |||
1927年 | アンリ・ベルクソン | フランス | 哲学 |
ポーランド系ユダヤ人を父、イギリス人を母として、パリのオペラ座からそう遠くないラマルティーヌ通りで生まれる(妹のミナは、イギリスのオカルティストマグレガー・メイザースと結婚し、モイナ・メイザースと名乗った)。 |
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1928年 | シグリ・ウンセット | ノルウェー | 小説 | |||
1929年 | トーマス・マン | ドイツ | 小説 | 1905年、ミュンヘン大学に務めるユダヤ系の数学教授の娘で当時学生だったカタリーナ・プリングスハイム(愛称カティア Katia またはカトヤ Katja)と結婚。その後彼女との間にエーリカ(de:Erika Mann)、クラウス(作家)、ゴーロ(de:Golo Mann、歴史家)、モーニカ(de:Monika Mann)、エリーザベト(de:Elisabeth Mann、ピアニスト)、ミヒャエル (de:Michael Mann、ヴァイオリニスト)の6子をもうけた。 | ホモ説 | |
1930年 | シンクレア・ルイス | アメリカ合衆国 | 小説 | ホモ説 | ||
1931年 | エリク・アクセル・カールフェルト | スウェーデン | 詩 4月に死去 |
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1932年 | ジョン・ゴールズワージー | イギリス | 小説 | |||
1933年 | イヴァン・ブーニン | 無国籍 | 小説 亡命ロシア人 |
第二次世界大戦中はナチスに抵抗し、ユダヤ人を自宅に匿ったという。 | ||
1934年 |
ルイジ・ピランデルロ |
イタリア |
☆ 戯曲 |
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1935年 | 受賞者なし | |||||
1936年 | ユージン・オニール | アメリカ合衆国 | 戯曲 |
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1937年 | ロジェ・マルタン・デュ・ガール | フランス | 小説 | ホモ説 | ||
1938年 | パール・S・バック | アメリカ合衆国 | 小説 | |||
1939年 | フランス・エーミル・シランペー | フィンランド | 小説 | |||
1941年 | 受賞者なし | |||||
1942年 | 受賞者なし | |||||
1943年 | 受賞者なし | |||||
1944年 | ヨハネス・ヴィルヘルム・イェンセン | デンマーク | 小説 | |||
1945年 | ガブリエラ・ミストラル | チリ | 詩 | 1925年から1934年までフランスとイタリアに在住しつつ、国際連盟の職務に就く。コロンビア大学、ヴァッサー大学、およびプエルトリコ大学の教壇に立った。 1945年にラテンアメリカ圏で初となるノーベル文学賞を受賞。「ラテンアメリカの母」との敬称を受けた。 コロンビア大学人脈! |
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1946年 | ヘルマン・ヘッセ | スイス | 小説 | 1931年に3度目の妻でアシュケナジム・ユダヤ人のニノン・アウスレンダー(旧姓ドルビン)と結婚する。 | ホモ説 | |
1947年 | アンドレ・ジッド | フランス | 小説 | アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド(Andre Paul Guillaume Gide, 1869年11月22日 - 1951年2月19日)は、フランスの小説家。アンドレ・ジイド、アンドレ・ジードとも表記される。 | ホモ説 | |
1948年 | T・S・エリオット | イギリス | 詩・評論 | ホモ説 | ||
1949年 | ウィリアム・フォークナー | アメリカ合衆国 | 小説 | ホモ説 | ||
1950年 | バートランド・ラッセル | イギリス | 哲学 | ケンブリッジ使徒会(Cambridge Apostles) http://en.wikipedia.org/wiki/Cambridge_Apostles |
ホモ説 | |
1951年 | ペール・ラーゲルクヴィスト | スウェーデン | 小説 | |||
1952年 | フランソワ・モーリアック | フランス | 小説 | ホモ説 | ||
1953年 | ウィンストン・チャーチル | イギリス | 伝記 | チャーチル:チャーチルの母親はユダヤ系アメリカ人であり、その父、つまり、チャーチルの母方の祖父は、ニューヨークタイムスの社主であった。勿論ユダヤ人であり、ウォール街のユダヤ資本の代弁者であった。 チャーチル家はマールボロの称号を持つ、イギリス史上最も名誉ある貴族である。だがチャーチル家は斜陽の時を迎えていた。それゆえ、マールボロ公爵はアメリカの成金、俗に泥棒貴族といわれたアメリカの鉄道王のユダヤ系ヴァンダービルト家から妻を迎えた。だからチャーチルにはユダヤ系の血が流れている。 |
ホモ説 | |
1954年 | アーネスト・ヘミングウェイ | アメリカ合衆国 | 小説 | ホモ説 | ||
1955年 | ハルドル・ラクスネス | アイスランド | 小説 | |||
1956年 | ホセ・ラモン・ヒメネス | スペイン | 詩 | |||
1957年 | アルベール・カミュ | フランス | 小説・戯曲 | ホモ説 | ||
1958年 | ボリス・L・パステルナーク | ソビエト連邦 | 詩 受諾後、ソ連政府の意向により辞退させられた。 しかし死去後に遺族が受取った。 |
父はユダヤ系でロシア正教徒の画家レオニード・パステルナーク、母はピアニストのローザ・カウフマン。 | ||
1959年 | サルヴァトーレ・クァジモド | イタリア | 詩 | |||
1960年 | サン=ジョン・ペルス | フランス | 詩 |
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1961年 | イヴォ・アンドリッチ | ユーゴスラビア | 小説 |
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1962年 | ジョン・スタインベック | アメリカ合衆国 | 小説 | ホモ説 | ||
1963年 | イオルゴス・セフェリス | ギリシャ | 詩 |
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1964年 | ジャン=ポール・サルトル | フランス | 哲学・小説・戯曲 辞退 |
著書に『ユダヤ人』 | ホモ説 | |
1965年 | ミハイル・ショーロホフ | ソビエト連邦 小説 |
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1966年 この年は受賞者2人 |
シュムエル・アグノン | イスラエル | 小説 |
ノーベル文学賞を受賞した最初のヘブライ文学作家。1966年にネリー・ザックスと共同で受賞した。シャイ・アグノン(Shai Agnon)としても知られる。 近代ヘブライ文学の中心人物の一人とされるアグノンは、オーストリアのガリチア地方ブチャチ(現在のウクライナ)でシュムエル・ヨセフ・チャチュケス (Shmuel Yosef Czaczkes) として生まれた。父親は毛皮商人で、アグノンは学校に通わなかったが、母親が彼にドイツ文学を教えた。彼は15歳で処女作の詩をイディッシュ語で発表した。その後の三年間で70編の作品をヘブライ語とイディッシュ語で発表する。彼は最初の短編小説『捨てられた妻たち』(Agunot)をアグノンのペンネームで1908年に発表した。1909年にパレスチナに移住し、その後はヘブライ語での作品発表を行った。 1913年にはドイツに移り住み、ザルマン・ショッケンの協力を得て作品発表を続けた。1924年6月6日、火災でその家と蔵書の全てを失いイスラエルへの永住を決意、エルサレム郊外のタルピヨットに居を構えたが、1929年のアラブ人暴動で彼の蔵書は再び失われた。 イスラエルの50新シェケル札にその肖像が描かれている。 |
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1966年 この年は受賞者2人 |
ネリー・ザックス | スウェーデン | 詩 ドイツ語で創作。 |
ドイツの女流詩人でユダヤ人作家のネリー・ザックスもアグノンと同時に文学賞をとり、授賞式で「私はユダヤ民族の悲劇を代表し、アグノンはイスラエルのユダヤ民族の将来を象徴する」と述べた。 |
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1967年 | ミゲル・アンヘル・アストゥリアス | グアテマラ | 小説 |
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1968年 | 川端康成 | 日本 | 小説 | ホモ説 | ||
1969年 | サミュエル・ベケット | アイルランド | 戯曲・小説 英語とフランス語で創作 |
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1970年 | アレクサンドル・ソルジェニーツィン | ソビエト連邦 | 小説 | |||
1971年 | パブロ・ネルーダ | チリ 詩 |
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1972年 |
ハインリヒ・ベル | ドイツ | 小説 | |||
1973年 | パトリック・ホワイト | オーストラリア | 小説 | ホモ説 | ||
1974年 この年は受賞者2人 |
エイヴィンド・ユーンソン | スウェーデン | 小説 |
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1974年 この年は受賞者2人 |
ハリー・マーティンソン | スウェーデン | 詩 |
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1975年 | エウジェーニオ・モンターレ | イタリア | 詩 | |||
1976年 | ソール・ベロー | アメリカ合衆国 | 小説 |
貧しいロシア系ユダヤ系移民の子 | ||
1977年 | ビセンテ・アレイクサンドレ | スペイン |
詩 |
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1978年 | アイザック・バシェヴィス・シンガー | アメリカ合衆国 | 小説 イディッシュ語で創作 |
ポーランド生まれのアメリカのノーベル賞作家。イディッシュ作家として初めてノーベル文学賞を受賞した。 当時ロシア帝国領だったワルシャワ近郊のラジミンen:Radzyminで生まれる。生まれた時の名前はイツェク=ヘルシュ・ジンゲル(Icek-Hersz Zynger)。父は敬虔派(ハシディズム)のラビで、母バトシェバはラビの娘。筆名のバシェヴィスとは、バトシェバの息子という意味である。兄のイズラエル・ジョシュア・シンガー(イディッシュ名イスロエル・イェホイシュエ・ジンゲル)も高名な作家で、弟アイザックに最初の、そして最大の文学的影響を与えた。父はラビであると同時に判事でもあり、ワルシャワの敬虔派ユダヤ教徒の精神的指導者でもあった。 ワルシャワの貧しいユダヤ人街とビウゴライen:Bi?gorajのシュテートルでイディッシュ語に取り巻かれて育ち、1920年、ユダヤ教の神学校に入学したが、やがてビウゴライに戻ってヘブライ語の教師で糊口をしのいだ。ラビを養成する学校での教育は彼に大きな影響を残したが、それと同時に文学にも惹かれており、文壇に迎え入れられることを熱望するようになった。1923年にワルシャワへ移り、兄イズラエルが編集するLiterarische Bleter誌で校正者として働きつつ、兄イズラエルから多大な精神的啓発を受け、また新時代の息吹を吹き込まれた。 1932年、処女作『ゴライの悪魔』をポーランドで上梓して文壇デビューを飾る。中世のイディッシュ年代記に擬したスタイルで、17世紀の贋メシアのシャバタイ・ツヴィを取り巻く出来事を描いた小説である。この作品の登場人物は、シンガーの他の作品の登場人物と同様、運命の気まぐれにしばしば翻弄されつつも、固有の情熱や狂気、偏見、妄執を失わない。後年の作品『奴隷』(1962年)でも17世紀を扱っているが、こちらはユダヤ人男性と非ユダヤ人女性の愛の物語である。 1935年に兄を追って渡米。反ユダヤ主義から逃れる目的もあった。このころ、シンガーは最初の妻ラヘルと離婚。ラヘルは息子イスラエルを連れてモスクワへ、次いでパレスチナへ移った。シンガーはニューヨークに居を定め、イディッシュ紙『フォルヴェルツ(??????????: 前進)』(en:Jewish_Daily_Forward)でジャーナリストとして、またコラムニストとして働き始めた。執筆はほとんどイディッシュ語のみで行い、ヴァルショフスキ(ワルシャワっ子)という筆名を使うこともあった。1940年にドイツ移民アルマ・ハイマンと再婚。1943年に米国の市民権を獲得して正式に米国人となる。今日なお週刊誌として存続している『フォルヴェルツ』紙との縁は、生涯にわたって続いた。 1940年代にはヨーロッパから多数のアシュケナジムが移民として米国に渡ったが、これらの移民の間でシンガーの文名は徐々に高まリ始めた。イディッシュ語の話し手はホロコーストでほぼ死に絶えてしまったため、第二次世界大戦後になるとイディッシュ語は「死んだ言語」と見なされがちだったが、シンガーはイディッシュ語が持つ力を信じ、イディッシュ語を読みたいと熱望する読者が多数いることを知っていたのである。1979年2月の『エンカウンター』en:Encounter_(magazine)誌のインタビューでシンガーは次のように語っている。すなわちポーランドのユダヤ人はほぼ死に絶えてしまったが「何かが…魂とも呼ぶことのできる何かが…宇宙のどこかにまだ漂っている。これは神秘的な感覚だが、真実はこの感覚の中にあるのだと私は感じている」と。シンガーの文学が過去の偉大なイディッシュ文学の伝統(たとえばショーロム・アレイヘム)に多くを負っていることは疑い得ないが、彼の場合はアプローチの手法が遥かに現代的で、かつアメリカ生活の経験からも大きな影響を受けている点に特色がある。中世のイディッシュ民話から魔術・神秘・伝説などの題材を駆りながらも、そこに現代的なアイロニーを盛り込んでいるところに独創性があるといえよう。これらの主題は、奇妙なものやグロテスクなものとも関連している。 シンガーは18冊の長篇小説を出し、14冊の童話を出し、無数の回想録や随筆や記事を書いたが、彼の本領は12冊以上にのぼる短篇集にある。英語による最初の短篇集は『馬鹿のギンペル』(1957年)で、表題作は1952年、ソール・ベローによって英訳され、『パルチザン・レビュー』en:Partisan Review誌に登場した。『フォルヴェルツ』に掲載された短篇は、のちに『父の法廷』(1966年)などの短篇集にまとめられた。この短篇集には「羽の冠」(1973年)、「市場通りのスピノザ」(1961年)、そして実在のイディッシュ俳優ジャック・レヴィをモデルにした「カフカの友人」(1970年)などの名作が収録されている。彼の作品世界は、ゲットーやシュテートルで貧困と迫害の中に生きる東欧のユダヤ人社会に舞台を取り、そこでは盲信や迷信が素朴な信仰や儀式と渾然一体になっている。喜びと苦しみ、粗野と繊細、そこでは全てが混沌としている。野卑で淫らでけばけばしい原色の世界に、英知や諧謔が溶け込んでいるところに魅力があるといえよう。 1952年のソール・ベローによる翻訳によってアメリカの読者から幅広い関心を集めたことをきっかけに、シンガーの作品は親類や友人らの助けを得て相次いで英訳刊行されることになった。やがて英語で書く作家たちとともにアメリカ・ユダヤ系作家のアンソロジーにも作品が収録されるようにもなり、シンガーはイディッシュ語作家でありつつもアメリカの代表的作家としても認められるようになる。1970年には全米図書賞の児童書部門で、1974年にはその小説部門で受賞を果たし、評価の点でもアメリカの第一線の作家らと肩を並べた。 シンガーの最も重要なテーマの一つに、新旧両世界の価値観のせめぎ合いという問題がある。これは主にシンガーの一族を描いた連作長篇『モスカット家一族』(1950年)、『領地』(1967年)、『財産』(1969年)などに登場するテーマで、時にトーマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』にたとえられることがある。これらの作品では、19世紀から第二次世界大戦に至る時代を背景にして、旧家の一族が新しい世代によって分裂し零落する有様を描いている。 1960年代を通じて、シンガーは個人的な倫理の問題を追究し続けた。特に有名な作品は『敵たち-ある愛の物語』で、映画化もされている。これは、ホロコーストのある生き残りが、いかに己の欲望や複雑な家族関係と向き合い、信仰を失うかを描いた物語である。もう一つの作品『イェントル』はフェミニスト小説で、『愛のイエントル』の題名で映画化されている(主演はバーブラ・ストライザンド)。この小説は、映画になったために、後世への文化的影響力を持ち続けている。 シンガー自身の宗教との向き合い方は複雑だった。正統派のユダヤ教に絆を感じつつも、自分自身を懐疑論者かつ個人主義者と見なしていたからである。彼自身の思想は最終的に「私的神秘主義」と彼が呼ぶものに変遷した。「なぜなら神は完全に不可知で永遠に何も語らないので、人が想定するどんな特徴でも持っているだろうからだ」と彼は語った。 1978年にノーベル文学賞を受けてからは、世界中の文学者の間で不滅の名声を獲得した。むしろ、イディッシュ作家からの評価よりも、非ユダヤ人からの評価のほうが高い。しかし、しばしば性的な話題を取り上げたため、敬虔なユダヤ教徒からは顰蹙を買うこともあった。 1991年、脳卒中のためフロリダ州マイアミで病死した。彼は亡くなるまでの35年間、熱心な菜食主義者としても知られた。 |
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1979年 | オデッセアス・エリティス | ギリシャ | 詩 |
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1980年 | チェスワフ・ミウォシュ | ポーランド | 詩 |
ミウォシュはイスラエルのヤド・バシェム・ホロコースト記念館により諸国民の中の正義の人の一人に数えられている。 | ||
1981年 | エリアス・カネッティ | イギリス | 小説 ドイツ語で創作 |
ブルガリア出身のユダヤ人作家、思想家。 1905年にブルガリアのルスチュク(ルセ)で、スペインから逃れてきたユダヤ人の家庭に生まれる。母語は古いスペイン語だったが、幼くして英語を、次いでフランス語やドイツ語を学んだ。著述においてはドイツ語を用いている。1913年にウィーンに移住し、ウィーン大学で化学を学ぶ。1929年に学位を取得、この頃に代表作である小説『眩暈』(1935)を書き始める。ナチス・ドイツによるオーストリア併合の際にもウィーンに留まり、ナチス党員や人々の様子を見守った。のちにこの時を回顧して「ナチズムとの具体的な体験を持ったこの半年間は、それ以前の何年にもまして、私の目を開いてくれた」と語っている。その後、1939年にユダヤ人迫害を逃れてイギリスに亡命した。 亡命後、自らの体験をもとにしつつ、膨大な資料を導入して群衆の解明に取り掛かった。諸学問に深く関わりつつ独自の立場から行われたその研究は、1960年発表の『群衆と権力』に結実した。文学者としてだけでなく思想家としても優れた作品を完成させたカネッティに、1981年にノーベル文学賞が贈られている。 チューリヒにあるカネッティの墓 晩年には独特の視点から書かれた自伝的三部作『救われた舌』(1977)、『耳の中の炬火』(1980)、『目の戯れ』(1985)に取り組み、若い日々の時代と社会、そして自らの人生を書き記した。1994年にスイスのチューリヒで死去、その亡骸はジェイムズ・ジョイスの隣に葬られた。 実弟のジャック・カネッティはポリドールやフィリップスでディレクターを務め、エディット・ピアフやセルジュ・ゲンズブール、シャルル・アズナヴール、ジョルジュ・ブラッサンスやジュリエット・グレコやジャック・ブレル、ボリス・ヴィアンなどを手がけ、新人発掘の名手と言われた。その下の弟のジョルジュ・カネッティはパスツール研究所教授で、結核の専門家である。 |
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1982年 | ガブリエル・ガルシア=マルケス | コロンビア | 小説 | ホモ説 | ||
1983年 | ウィリアム・ゴールディング | イギリス | 小説 | |||
1984年 | ヤロスラフ・サイフェルト | チェコスロバキア |
詩 | |||
1985年 | クロード・シモン | フランス | 小説 | |||
1986年 | ウォーレ・ショインカ | ナイジェリア | 戯曲 | |||
1987年 | ヨシフ・ブロツキー | アメリカ合衆国 | 亡命ロシア人 | 詩 |
レニングラードのユダヤ人家庭に生まれる。父親はソ連海軍の写真家であった。 ブロツキーは1972年6月4日にソ連から国外追放され、1980年には米国の市民権を得た。彼はミシガン大学で教鞭を執り、その後ニューヨーク市立大学クイーンズ校、スミス大学、コロンビア大学、イギリスのケンブリッジ大学の客員教授でもあった。マウント・ホリヨーク大学の文学教授でもあった。 コロンビア大学人脈! |
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1988年 | ナギーブ・マフフーズ | エジプト | 小説 |
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1989年 | カミーロ・ホセ・セラ | スペイン | 小説 |
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1990年 | オクタビオ・パス | メキシコ | 詩・評論 |
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1991年 | ナディン・ゴーディマー | 南アフリカ共和国 | 小説 英語で創作 |
父はリトアニアからのユダヤ系移民、母はイギリス系のユダヤ人。 | ||
1992年 | デレック・ウォルコット | セントルシア | 詩 |
コロンビア大学人脈 |
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1993年 | トニ・モリソン | アメリカ合衆国 | 小説 | 黒人女性 | レズ説 | |
1994年 | 大江健三郎 | 日本 | 小説 | ホモ説 | ||
1995年 | シェイマス・ヒーニー | アイルランド | 詩 | |||
1996年 |
ヴィスワバ・シンボルスカ | ポーランド | 詩 | |||
1997年 | ダリオ・フォ | イタリア | 戯曲 |
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1998年 | ジョゼ・サラマーゴ | ポルトガル | 小説 | |||
1999年 | ギュンター・グラス | ドイツ | 小説 | |||
2000年 | ガオ・シンジェン(高行健) | フランス | 小説・戯曲 中国語で創作 |
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2001年 | V・S・ナイポール | イギリス | 小説 | |||
2002年 | ケルテース・イムレ | ハンガリー | 小説 | ユダヤ系。 第二次世界大戦中、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所などで生活を送り、帰還後は高校を卒業して新聞社、工場労働者などを経て、1953年からはフリーランスの作家・翻訳家となる。最初の小説作品でホロコーストの体験をもとに描き出した自伝的小説『運命ではなく』では、ドイツ、フランス、アメリカを中心に高い評価を受ける。他の作品として、『挫折』(1988)、『生まれなかった子のためのカディッシュ』(1990)などがある。ニーチェやエリアス・カネッティなどドイツ文学の翻訳も手がける。2002年にノーベル文学賞受賞。 ケルテース・イムレにノーベル文学賞の受賞が決定した際、本国ではイムレが無名であったために、同姓の作家ケルテース・アーコシュ(Kertesz Akos)の作品も相乗効果で売れたというエピソードがある。 |
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2003年 | J・M・クッツェー | 南アフリカ共和国 | 小説 英語で創作 |
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2004年 | エルフリーデ・イェリネク |
オーストリア 小説・戯曲 |
父はユダヤ・チェコ系の化学者で、母はウィーンの富裕層の出身のカトリックであった。 | |||
2005年 |
ハロルド・ピンター | イギリス | 戯曲 | ユダヤ系ポルトガル人の労働者階級の両親のもとに生まれる。 | ホモ説 | |
2006年 | オルハン・パムク | トルコ | 小説 | |||
2007年 | ドリス・レッシング | イギリス | 小説 | |||
2008年 | ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ | フランス | 小説 | |||
2009年 | ヘルタ・ミュラー | ドイツ | 小説 | |||
2010年 | マリオ・バルガス・リョサ | ペルー | 小説 | コロンビア大学人脈 |
ホモ説 | |
2011年 | トーマス・トランストロンメル | スウェーデン | 詩 |