日本の、中絶容認派と、禁止派との争い 年表 (詳細)

 

1603    
1646   三代将軍家光、中条流女医者の堕胎禁止の町触れを出す
1680   綱吉、堕胎禁止の町触れを出す
     
1868(明治元年)    
1869(明治2年)   2月産婆の堕胎・売薬の取り扱い禁止
     
1880   堕胎罪制定。
     
1882(明治15)   堕胎罪規定される。
     
1889    
     
1894    
     
1900    
1904    
     
     
1907 アメリカ、インディアナ州で、世界初の優生断種法  
     
     
1910    
     
1914    
     
     
1917    
1918    
     
1921 アルゼンチンで優生学的理由での中絶容認  
1922 1917年ロシア革命
1920年12月ソヴィエトロシア人民衛生委員会の決議により、堕胎を罰しないという布告(婦人の保護及び健康に関する布告)をだして、新ロシアの法律となり、
1922年の刑法にそのまま採用された。
 
     
1931 スイスで優生学的理由による中絶を認め、精神薄弱、精神病者の中絶を認めた。  
     
1933 ドイツ、ナチス政権が断種法  
1934(昭和9)   帝国議会に議員から「民族の優生を保護助長し、悪質遺伝子を根絶することを目的とする」という『民族優生法』が提案された。しかし審議未了。
1935 ドイツ、ナチス政権が優生学的中絶を認めた 東京帝国大学・永井潜教授らが「ナチス・ドイツがアーリア人民族の血の純潔を強化しているように、大和民族も血の純潔を強化しなければならない。日本もドイツのように断種法を制定する必要がある」と『民族優生保護法案』を帝国議会に提出。しかし成立せず。
1936   4月1日長野県で堕胎のしきたりを一掃するため産婆を公営化
1937    
1938   1月産児制限相談所閉鎖、産児調節弾圧厳しくなる
1939   民族衛生についての特別委員会が設置される。「民族優生保護」を検討。
1940   永井潜による案が修正されて、「国民優生法」が成立。遺伝性精神病や強度の身体疾患がある人間に優生手術を行なって子どもを産めなくすることを合法化。それと出産制限は徹底的に取り締まられた。
1941   4月人口政策要綱が制定。「婚姻年齢を3年早め、一夫婦平均五児を目標」。標語は「悪い遺伝のない人を選べ、なるべく早く結婚せよ、産めよ育てよ国の為」

避妊・人工妊娠中絶は事実上できない状態になった。

1942   人口政策確立要綱の「国民の精神的・肉体的素質の増殖のための方策」に基づき、妊産婦手帳制度が誕生。
     
1945    
1946    
1947   参議院議員の大田典礼、加藤シヅエ、福田昌子らが中心になり、『優生保護法』を提案。特筆すべきは医師による避妊と人口妊娠中絶を合法化することに重点を置いたこと。中絶の要件には母体の危険命の危険だけではなく、健康の危険が加えられた。さらに「子孫に悪い影響」のあるとき、強姦による規定も加えられていた。
1948   7月国民優生法の廃止に伴い、大田典礼らの案を修正して「優生保護法」成立。「不良な子孫の出生防止と母体保護を目的」に、「優生手術(いわゆる不妊手術)」と「人口妊娠中絶」の規定が記された。
原案より、中絶の要件が狭められ、中絶するには優生保護委員会の決定が必要とされた。また、指定医師の規定が設けられた。都道府県の指定した医師が条件を守って行う限り、刑法の堕胎罪の適用はしない、ということである。指定医師の指定権は都道府県医師会が持ち、その指定権の行使には、厚生大臣はもとより、何人も関与できないとされている。
なお、第一条の「この法律の目的」には、戦争中の『国民優生法』を引き継いだ「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」が入っている。

文部省、純潔教育の通達

1949   1月20日厚生省が優生保護法で認められた妊娠中絶に関し、妊娠8ヶ月以上は適用外、経済的・社会的理由は認めずと通達。
4月4日横浜で神奈川県下初の優生保護法が適用され、戦争未亡人が中絶手術(4月中に419人が中絶)。
4月29日エーザイ、避妊薬「サンプーン」発売。戦後の新薬第一号。「新薬」という言葉はこのとき生まれた。
6月マッカーサー司令部が「人工制限問題は占領業務外である。産児制限は個人の判断と決定に待つ問題である」と発表。
6月7日厚生省、妊娠中絶増加により、出生率が低下、1,000人に対し20人が中絶したと発表。

優生保護法改正(「経済的理由」による妊娠中絶認める)

1950    
1951   人工妊娠中絶の増加に関連し、受胎調節の普及をはかることを閣議で決定了解。
1952   5月優生保護法改正(優生保護審査委員会が廃止され、指定医の認定だけで中絶ができるようになった)。
本人と配偶者の同意で中絶ができるようになった。
1953    
1954    
1955    
1956    
1957    
1958    
1959    
1960    
1961    
1962    
     
1964    
1965   母子保険法成立。

一部の経済学者から「単なる経済的理由の中絶は刑法の定める正当な業務行為の理念からはみだすおそれがある」として、「経済的理由を削除すべき」という改正議案が示された。

1966    
1967   「成長の家」が中心となって「優生保護法改廃期成同盟」結成
1968    
1969   「成長の家政治連合(成政連)国会議員連盟」結成
1970 3月デンマーク、フィンランド、中絶合法化 1月21日日本のリブ,初めての街頭行動を行う。夏から改悪反対運動に取組んでいた。

8月日本医師会が前年の優生保護法実態調査に基づいて「優生保護対策について」を発行。成長の家の動きには反対しながらも、「先天性異常児」発生の予防として、中絶を許す条件に胎児側の理由を追加すべきである…と論じる。

1971  フランスでは『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌(1971年4月5日号)に、シモーヌ・ド・ボーボワール、フランソワーズ・サガン、カトリーヌ・ドヌーブ、マルグリット・デュラス、ジャンヌ・モロー、ジゼール・アリミなどが「私たちも中絶をした」と刑法堕胎罪を告発し、避妊と中絶の権利を求めた「343人の宣言」が掲載。  
1972 フランスで10月11日、当時17才のごく普通の女子高生マリ=クレールが強姦されヤミ中絶をした罪で、ボビニ少年裁判所に出頭。この事件はマスコミで大々的に騒がれ、中絶合法化へとすすむようになった。 5月政府が優生保護法改正案を国会に提出。ポイントは2点。どちらも中絶の要件についてで、これまでは「医学的・経済的理由」でゆるされた中絶の「経済的理由」をはずし、「医学的理由」のみにしようとした。また出生前診断が進んできたことを背景に「胎児に重度の精神・身体障害があるとわかった場合には中絶してもよい」という、いわゆる「胎児条項」を加えようとした。たちまち女性や障害者たちからの反対の声が巻き起こり、実質審議は行われず、廃案。
1973 1月米国テキサス洲の妊婦がおこした中絶の権利を求める裁判で、連邦最高裁は全米での中絶を認める判決(それまで多くの州では中絶は違法だった)。 4月17、18日、宮城県の産婦人科医、菊田昇は地元の『石巻新聞』『石巻日日新聞』に赤ちゃんを戸籍上実施として斡旋する広告をだした。4月20日毎日新聞の記者が一面記事としてとりあげた(菊田医師事件の勃発)。菊田医師は妊娠中絶は6ヶ月までで、7ヶ月の妊娠中絶の禁止を要求。中絶をなくすために「実子特例法」の制定を要求。@二重戸籍にし、実母の一般公開の戸籍には出産の事実を記載しないA養子を戸籍法実施として扱うB実親子関係を法的に断絶する。88年1月から、ABのみが実施。

9月保守派、優生保護法から「経済的理由」の削除する改正案再び国会上程、継続審議となる。

1974   5月優生保護法から「経済的理由」の削除する改正案審議未了で廃案
1975 フランスでは、中絶合法が5年間の時限立法として成立。  
1976   1月厚生省、人口妊娠中絶を認める時期を1ヶ月短縮して6ヶ月までとすることを都道府県・日本医師会などに通知。
1977   「成長の家」が参議院にだしている玉置和郎が中心になって、1977年11月1日に「宗教政治研究会」設立。
1978    
1979 フランスで、1975年には、中絶合法が5年間の時限立法として成立。1979年に、中絶法が若干の改正を経て恒久立法となった。  
1980 フランスで自然な流産を誘発する抗プロゲステロン作用を持つ人工妊娠中絶薬「RU486」が開発 11月優生保護法39条可決
1981    
1982   82年3月1日東京の赤坂プリンスホテルで「成長の家政治連合国会議員連盟」の総会が開かれた。会長・玉置和郎。顧問・福田赳夫、灘尾弘吉、倉石忠雄、中曽根康弘、安井謙。代表世話人・瀬戸山三男、長谷川峻、金丸信、竹下登、斎藤邦吉、上村一郎、海部敏樹、三原朝雄、奥野誠一、橋本龍太郎、中川一郎、塩川正十郎、藤尾正行、佐藤隆、藤波孝生、森喜郎。代表世話人・邦裕一、植木光教、土屋義彦、初村滝一郎、平井卓志、森下泰、降旗敬義。事務局長・村上正邦。

成長の家政治連合の村上正邦議員が、優生保護法に関して、@経済的理由の削除、A堕胎罪の強化を主張。改正の必要と早期実現を、鈴木首相と森下厚相が約束。

再び、優生保護法から「経済的理由」を削除しようという改正案が厚生省から提出される予定であることが、国会の議題に上る。

「82 優生保護法改悪阻止連絡会」が結成され、全国各地で女達の反対運動が盛りあがった。
さらに日本医師会、母性保護医協会、日本家族計画連盟、自民党女性議員が反対声明をだした。
政府自民党は、翌年春の国会での改正案上程を断念。

1983    
1984   5.30厚生省が人口流産剤「プレグラディン」を世界初認可。
1985    
1986    
1987   1973年に菊田昇医師の赤ちゃん斡旋事件が社会問題に。菊田医師は中絶をなくすために「実子特例法」の制定を要求。@二重戸籍にし、実母の一般公開の戸籍には出産の事実を記載しないA養子を戸籍法実施として扱うB実親子関係を法的に断絶する。
9月18日、ABのみの、特別養子制度が参議院(国会)において全会一致で可決され、成立。1988年1月から実施。
1988(平成2) フランスで自然な流産を誘発する抗プロゲステロン作用を持つ人工妊娠中絶薬「RU486」が認可。 1月から、特別養子制度実施。
1989(平成3) フランスで、自然な流産を誘発する抗プロゲステロン作用を持つ人工妊娠中絶薬「RU486」が市販された。 12月18日厚生省の公衆衛生審議会は、優生保護法に基づく妊娠中絶できる期間を満23週以前(満24週未満)から満22週未満に短縮する答申を出す(厚生省は91年1月から変更する方針)。

12月妊娠中絶できる時期の短縮に関し、「国際婦人年日本人大会の決議を実現するための連絡会」(主婦連、婦人有権者同盟など加盟50団体、傘下2,300万人)や、土井委員長を始め、社会党の女性国会議員17人らから、要望書が厚生省に6件提出される。このほか「短縮反対」の要請文も2件出される。

1990 4月米国アイダホ州知事は同州議会が採択した中絶禁止法に拒否権発動、事実上の廃案に追い込む。

4月ベルギー国王は堕胎認可法案に署名できないとして、一時退位という非常措置がとられた。が、中絶合法化。

6月米国ルイジアナ州議会は、強姦や近親相姦による妊娠の中絶も違法とする米国で最も厳しい妊娠中絶規制法案を可決。

1月27日妊娠中絶できる期間の短縮に反対する女性たちが大阪市で「中絶できる時期の短縮に反対する集会」を開く。主催は大阪の女性団体の集まり「中絶時期短縮に反対する大阪実行委員会」。

2月23日女と健康連絡会の主催で緊急集会「女ぬきで決めるな! 中絶できる時期の短縮」が開かれる。日本婦人会議、82優生保護法改悪阻止連絡会など50団体(2月6日現在)が参加。

3月19日厚生省は優生保護法に基づく人口妊娠中絶のできる最大期限の基準を、現行の満23週以前(満24週未満)から満22週未満に変更、91年1月1日から実施することを決めた。

3月20日厚生省は厚生事務次官名で、優生保護法における娠中絶期限満22週未満を各都道府県あて通知。

3月23日福岡県嘉穂郡稲葉町議会は議員提案の「中絶規制の強化に反対する意見書」を全会一致で採択。

1991 1月米国ユタ州で米国の州として最も厳しい人口妊娠中絶規正法が成立。

6月ほぼ全面的に人口妊娠中絶を禁じる米国で最も厳しい妊娠中絶禁止法が、ルイジアナ州で知事の拒否権を覆して成立。

ウイルキー博士、ウイルキー夫人(DR. & MRS. J. C. WILLKE)『わたしの生命を奪わないで(ABORTION QESTIONS & ANSWERS)』燦葉(さんよう)出版社  日本語版は1991年4月19日発行 原著はアメリカで1985年、改訂版が1988年、第4刷が1989年発行 訳者は菊田昇医師。
ジョン・ウィルキー博士は人口妊娠中絶に反対する「国際生命尊重連盟」 (国連の非政府期間で本部はスイスのローザンヌ)の会長。アメリカ人の産婦人科医。

4月25日〜27日東京で人口妊娠中絶に反対する「国際生命尊重連盟」(国連の非政府期間で本部はスイスのローザンヌ)開催。 ジョン・ウィルキー博士と夫人も来日して参加。
4月27日、世界生命賞が菊田昇医師に授与された。8月菊田昇医師死亡。

1992(平成6) 2月アイルランドで、レイプの結果妊娠した14歳の少女が英国での人口妊娠中絶を求めたが、ダブリン最高裁は禁止の決定をくだす

6月ドイツ連邦議会は妊娠中絶を認める法案を賛成多数で可決。

6月米国ペンシルベニア州の妊娠中絶規制法案で、連邦最高裁は「女性の憲法上の権利」を認めた「ロー対ウェード判決」(1973年)について一応は支持しつつも「唯一絶対ではない」として中絶の権利を弱める判決をくだす

7月ポーランド下院は、妊娠中絶を全面禁止する新法案について賛成多数で原案を承認

8月ドイツの連邦憲法裁判所は、先に議会で成立した妊娠中絶承認法の実施を一時停止する強制命令をくだす

9月インドネシアで厳しい条件付ながら、人口妊娠中絶を容認する法律が成立

11月アイルランドで行われた中絶合法化に関する国民投票の結果、国内での中絶禁止は継続されるが、外国での中絶は法的に認められることに

 
1993 1月クリントン大統領は、人口妊娠中絶に関する連邦の制限措置を撤廃

3月クリントン大統領は低所得層の女性の妊娠中絶に連邦予算を使うことを禁じてきたきた規定(ハイド修正条項)を廃棄するよう議会に求める方針を固める

1月ポーランド上院は下院に続き、女性の権利に譲歩した中絶規正法を賛成多数で可決

5月「妊娠12週以内なら自由とした旧東ドイツ寄りの妊娠中絶法に違憲判決(ドイツ連邦憲法裁判所)

 
1994 7月ポーランド国会上院は、妊娠中絶を厳しく制限した妊娠中絶法の内容を緩和する修正法案を賛成多数で可決

9月国連主催の国際人口開発会議、カイロで開催。女性のリプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)の保証を取り上げた。

 
1995 3月アイルランド上院は、医師が中絶を希望する女性に対し、外国の病院名や住所などの情報を提供できるとした政府提出案を、全会一致で可決

6月ドイツ連邦議会(下院)は、妊娠12週以内なら医師などの専門家との相談を義務付けた上で中絶を認める妊娠中絶法改正案を可決

9月国連主催の世界女性会議、北京で開催。

 
1996   6月18日不妊手術や人工妊娠中絶に関する諸規定を定めた優生保護法の改正案が参院本会議で可決、母体保護法が成立。

9月26日母体保護法が施行。

1997(平成9) 5月国連人口基金、『97年版人口白書』を発表。リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)の保証を全面的に取り上げた。

5月米国上院本会議で、共和党が提案した妊娠後期の中絶を禁止する法案を可決

10月クリントン米国大統領は、議会が先に可決した妊娠後期の中絶を禁止する法案に対し拒否権を行使

 
1998 9月2日米国FDAが薬品会社ジネティクスに対し、事後に服用する経口避妊薬セットの販売を初めて認可。  
1999(平成11)    
2000 9月28日 ついに米国のFDAが経口中絶薬RU486認可! 商品名「Mifeprex」  

 

 *連合国側最高司令官 第二次世界大戦で、米軍に敗戦した日本は、米軍の占領下におかれた。それを日本では、マッカーサー元帥率いる「進駐軍」「GHQ」って呼ぶでしょ。
 ところが副島隆彦によると、本当は「SCAP エス・ピー・シー・エー(Supreme Commander for Allied Powers シュープリーム・コマンダー・フォー・アライド・パワーズ)、連合国側最高司令官」だって。「アメリカでは今でもマッカーサー統治時代の日本の軍事政府のことをSCAPと呼ぶ」って。
 皇居の前の第一生命ビルに「連合国総司令部」を設置して、「GHQというのは、占領時代に米軍兵士たちが自分たちの司令本部のことをそう呼んだのを、ここに出入りした日本人の官僚や新聞記者たちが思い違いをしたままつかったのだろう」とのこと。

 

 

 

 

 参考資料