日本の避妊・中絶の歴史 (詳細)

1603      
1646     三代将軍家光、中条流女医者の堕胎禁止の町触れを出す
1680     綱吉、堕胎禁止の町触れを出す
       
       
1827   日本へ江戸・文政期に、オランダからコンドームが輸入。  
       
1844 ゴム製コンドームは、英・ハンコック社と米・グッドイヤー社が開発。    
       
1865      
       
1868(明治元年)     10月堕胎薬の販売禁止
1869(明治2年)     2月産婆の堕胎・売薬の取り扱い禁止

明治政府堕胎禁止令を出す

       
1872 米国のニューヨーク悪徳撲滅協会(New York Society for the Suppressin of Vice)の書記アンソニー・コムストック(1844〜1915)、積極的なロビー活動で「不道徳目的でのわいせつ文書・物品の取引・流通撲滅法」、いわゆるコムストック法(「わいせつ」とされる郵便物を検閲し、その郵送を禁止)通過させる(1965年廃止)。    
       
1879      
       
1880     堕胎罪制定。
       
1882(明治15)   3月荻野久作誕生。 堕胎罪規定される。
       
1885 ドイツの医師メンシンガ、女性の子宮に蓋をする避妊器具ペッサリーを発案。    
       
1889      
       
1894      
1897(明治30)      
1898      
1899   産婆規則公布。国家試験合格者にのみ営業許可を与える。  
1900      
1904      
       
1907     現行刑法における堕胎罪公布。改正刑法「第二十九条 堕胎ノ罪」。[ドイツ刑法に倣い、堕胎罪がより厳密になる。概して懲役年限を延長、堕胎に介在した者は本人堕胎より重い刑となり、専門職の堕胎幇助の刑期も明確化され、不同意堕胎については未遂も処罰対象となる]
       
1909   国産コンドーム1号「ハート美人」  
1910      
       
       
       
1914 米のマーガレット・サンガー、月刊誌『ウーマン・リベル(女反逆者)』を発刊し、避妊への意識を高める活動を始めたが、コムストック法(「わいせつ」とされる郵便物を検閲し、その郵送を禁止)で起訴され、ヨーロッパ逃亡。    
       
1916 マーガレット・サンガー、米国へ帰国、不起訴。NYで初の産児制限専門クリニック開設し避妊方法の研究・助言したが、9日で警察に連行、裁判、30日の懲役。コンドーム開発。    
       
1918      
       
1920      
       
1922(大正11)   3月10日 日本政府、マーガレット・サンガーを、「滞在10日間のうち、産児制限というようなことは一切口外しない」という条件付で日本上陸許可。
3月18日 サンガー歓迎会、サンガー「産児制限と道徳」講演、安部、石本、加治ら人口問題研究会結成について協議

5月東京に日本産児調節研究会発足(参加者 石本恵吉・静江(後の加藤シヅエ)夫妻、加治時治郎、安部磯雄ら)。5月13日機関誌『小家族』発行(1回のみで中止)
その他、大阪、京都、神戸の各地にも産児調節研究会が発足。
5月 山本宣治『山峨女史家族制限法批判』、大学教授、医師に頒布。12月普及版を無産階級の指導者に、以降労働者間に頒布

 
1923 子宮内に異物を挿入する避妊法は古くからあったそうだが、文献上初めて報告があったのが、1923年のヨーロッパのPustであったとか。棒状のものを子宮口にさし込み、子宮内に入り込まないようにするために、子宮外の部分に平たく丸い形をしたガラス板をつけた 1月5日 大阪産児制限研究会設立(野田律太、大矢省三、九津見房子ら)、安部磯雄講演
3月名古屋、5月大阪など各地で山本宣治ら講演会開催

1月24日山本宣治、松江高女で小・中・女学校教師のための「性教育」を講演、鳥取教育会主催、男女教師100人出席

3月31日〜4月1日 足尾婦人問題講演会(全日本坑夫総連合主催)石本静枝、産児制限論につき講演

5月24日 神戸産児制限研究会設立のための第1回会合(青柿善一郎、灘重太郎ら)。7月14日発会記念講演会、山本宣治ら講演

5.25『産児制限』パンフレット刊、野田君子著(実際は九津見房子)

6月1日 大阪労働学校開校。山本宣治、産児制限を講義

8月5日 山本宣治『性教育』

 
1924(大正13)   6月荻野久作、黄体と子宮粘膜の周期的変化の関係を発見、受胎日の推定に役立てうることを『日本婦人化学会雑誌』に発表。
「人類黄体の研究」という「荻野学説」の基礎を発表。

6月産児調節相談所設立(加治時治郎)。京都にも産児制限研究会設立(山本宣治ら)

 
1925   2 『産児調節評論』創刊、主幹山本宣治(13号で廃刊)  
       
       
1928 ドイツのグレーフェンベルグ、子宮内避妊具として、絹糸束や、星状糸のを発表 7月13日人口食料問題委員会、特別委員会開催し、産児制限と優生学について研究  
1929   11月5日警視庁、東京市(←?)の細民のための産児制限案に警告
東京市(←?)の産児制限案警視庁横ヤリで実施中止、後に条件付で実施(低所得者のみ)
 
1930 ドイツのグレーフェンベルグ、子宮内避妊具として、銀のコイル状の輪をしたのを発表(グレーフェンベルグ・リング) 2月1日愛児女性協会(奥むめお、金子しげり等)が産児制限相談所を東京に開設、医師馬島|、尾崎豊子が妊娠・小児保健相談を行う。2〜10月の相談来訪者1,359人、6〜10月の文書相談者5,130人で、多くが貧困・多産によるもの。この頃、生活困窮から産児制限に対する要望深刻化
3.15大日本産児制限協会(大原社研所員、社会実業家など15人)も開設。大阪に産児制限相談行う。各地に波及

5月6日 大阪府警察部、堺市の産児制限相談所2ヵ所に閉鎖命ず

8月9日警視庁、東京における産児制限・妊娠調節などの行為を厳禁

9月10日社会民衆婦人同盟第3回中央大会、産児制限運動の開始を決議。20日産児制限協会、創立趣意書発送

11月大阪優生相談所、11月の相談者462人の相談理由ー貧困287人、母体病弱86人、多産66人など

11月末 婦人セツルメント、第1回講座開設「妊娠調節問題」

12月27日内務省、「有害避妊器具取締規制」公布。避妊ピンなどの販売禁ず。1931年施行。

 
1931(昭和6)   1月10日内務省、「有害避妊器具取締規制」施行。

1.17日本産児調節連盟結成(馬島|、石本静枝ら)5月に織本貞世、平塚らいてうとう加盟し具体的活動開始

5月17日婦人産児制限連盟創立準備委員会開催、無産婦人団体の代表30余出席、プロレタリア階級のための産児制限めざす

6月「有害避妊器具取締規制」施行。

6月無産者産児制限同盟創立、200余人参集、ブルジョア的産児制限運動に反対の立場
9月『産児制限運動』第1号発刊

荻野久作、自分の学説を応用して、受胎を調節する論文を学会誌に発表し、その学説は世界中に衝撃を与え、その学説を参考にしたオギノ式避妊法だけはカトリックの法王も特別に認めたとか。

日本医師会答申「遺伝の濃厚な疾患について断種の法的規制を」

 
1932   太田典礼、ドイツのグレーフェンベルグが1930年に子宮内避妊具として、銀のコイル状の輪をしたの(グレーフェンベルグ・リング)を発表したのに影響を受け、それを応用した金コイルの輪の中に玉をつるした太田リングを発明し、発表(当時のIUDはリング状の形態をしていて、挿入には頚管(けいかん 子宮の入り口)を拡張して入れなければならない閉鎖型IUD、いわゆる、第1世代IUD)。IUDが欧米で解禁されおおいに利用されていたのとは違い、日本では長いこと禁止されていました。IUDが厚生省に認可されたのは、なんと1974年。

7.20堕胎法改正期成連盟結成。産児制限普及会(安部磯雄)提唱、平塚明子、奥むめお、赤松明子、岩内とみゑ等、必要な場合に堕胎を合法的に行う権利得るため

10月13日石本静枝、国際産児制限大会東京開催を相談のため渡米

12月1日日本母性協会創立(馬島|)、産児制限、児童健康相談行う

 
       
1934(昭和9)   マレーシア産の天然液状ゴム(ラテックス)製の薄いコンドーム商品が開発。 民族優生保護法案提出 国会通過せず
1935   1月10日馬島|(産児制限提唱者、本所労働者診療所長)、理由なき堕胎行った廉で懲役8ヶ月の判決 民族優生保護法案提出 国会通過せず
1936   避妊リング、有害避妊器具にされる 民族優生保護法案提出 国会通過せず
1937   母子保護法制定 母子栄養強化対策を目的とする

保健所法

陸軍 内閣支持の条件として国民体位向上のための衛生省(のちに厚生省)

産児調節運動弾圧が厳しくなり、産児調節相談所閉鎖に
12.17早朝、石本(現在は加藤)シヅエは私服刑事四人による家宅捜索を受け、品川の大井警察署に連行される。
産児制限は国体維持に反しないか。それが尋問の内容だった。シヅエが取り調べを受けている間に産児制限相談所も家宅捜索され、カルテや女性たちの手紙など一切の記録類が持ち去られた。相談所は閉鎖せざるを得なかった。

民族優生保護法案提出 国会通過せず
1938(昭和11)   1.31産児制限相談所(石本静枝)、当局の勧告を受け入れ閉鎖、産児調節弾圧厳しくなる

5月内務省警保局は「婦人雑誌に対する取り締まり方針」を出した。避妊に関する情報の掲載が困難になった。

厚生省設置

民族優生保護法案提出 国会通過せず
1939   厚生省に付属機関として人口問題研究所を設立  
1940   国民体力法 戦時の栄養低下防ぎ徴兵チェックを目的とする 5月1日 国民優生法公布。1941年公布
遺伝性精神病や強度の身体疾患がある人間に優生手術を行なって子どもを産めなくすることを合法化。
不健全素質者に対する優生手術、健全者の産児制限防止を規定。

ただし、国民優生法は、人工妊娠中絶を推し進めることはしていない。母体保護のための中絶は届け出によって可能だが、優生上の理由にもとづく中絶は許可していなかった。むしろ、戦争を控えて、兵隊を産めよ増やせよという思想に足並みをそろえていた。国民優生法の主眼は、あくまで民族の劣化を防ぐための優生手術であった。

1941   4月厚生省、「人口政策要綱」提出。閣議で決定。「東亜共和圏の建設と発展に向け,内地では昭和三五年に一億人を目標とする」人口増加の具体的方策を微細にわたって規定。、「産めよ殖やせよ国のため」、男は戦地へ、女は多産を、が戦争政策のための人口政策だった。死亡減少については二〇年間に三割五分の低下を望む。避妊・人工妊娠中絶は事実上できない状態になった。

人口政策確立要綱の実施機関として厚生省に人口局,局内には母子課がおかれる

7月1日 民優生法施行
1945(昭和20)   太田典礼、京都に産児調節相談所開設  
1946   2月マッカーサー司令部公共衛生福祉部長サムス大佐は記者団との会見で
1.工業開発によって、食料輸入を可能にすること。
2.日本人たちの海外移民
3.人口増加防止のための産児制限

4月最初の総選挙に、かつての産調節運動関係者で立候補したのが、東京の加藤シヅエ、京都の安田徳太郎、太田典礼、北海道の新妻伊都子。当選したのが、東京の加藤シヅエ、北海道の新妻伊都子。

8月厚生省人口政策委員会が「産むな殖やすな」運動を提唱。

天野景康・文子、日本妊娠調節研究所、母性相談所設立。太田典礼、産児制限連盟(京都)結成。加藤静枝『産児制限と婦人』(よみうり業書)。この頃、産児調節運動さかん

 
1947   6月厚生省人口問題研究所、初の産児制限実態調査結果発表(産児制限実行者は教員、理由は経済上からが多い)

7月22日日本産児制限連盟発足

7月産児制限普及会(加藤シヅエ)発足。その他各地で産児制限普及運動始まる

参議院議員の大田典礼(元医者)、加藤シヅエ、福田昌子(元医者)らが中心になり、『優生保護法』を提案。特筆すべきは医師による避妊と人口妊娠中絶を合法化することに重点を置いたこと。中絶の要件には母体の危険命の危険だけではなく、健康の危険が加えられた。さらに「子孫に悪い影響」のあるとき、強姦による規定も加えられていた。

加藤シヅエ、福田昌子、太田典礼が衆議院に優生保護法案(社会党案)を8月28日、第一国会に提出し、10月1日受け付け。*連合国側最高司令官の了解があればだいたい議会は通過するはずだったが、*連合国側最高司令官との交渉に手間取り提出がおくれ、会期も少なく、審議未了廃案となる。
この法案は次ぎの国会に再提出の予定であった。

1948   エーザイが婦人衛生薬の「サンプーン」発売。 「サンプーン」は、エーザイの基礎を築いたともいえる製品。抜群の知名度で当時は“サンプーンのエーザイ”ともいわれた。 そして太田典礼ら元医者の衆議院議員らに、谷口弥三郎ら元医者の参議院議員らから「急進すぎると思われる点があるので、修正してはどうか」「参議員から提出したほうが通りやすいから、提出をまかせてくれないか」との交渉があった。太田典礼は、谷口らに自分らの法案がよこどりされるようなのと、谷口らが保守的なのが気に食わなかったが、中絶手術を合法化するためにはとしぶしぶ組むことに。

太田らの原案の修正は、主に参議院厚生専門調査委員、中原武夫によって進められた。
1「一時的避妊がなくなった」
2「妊娠中絶」の章が「母性保護」(任意の人工妊娠中絶」となり、中絶の範囲がせばめられた。
3優生保護委員会の章をもうけ、中絶にも委員会の決定を必要とする。
4中絶に対して、指定医師たちの規定がもうけられた。
5優生結婚の相談所の章ができた。

超党派の議員によって前年とは別の法案が提出され、それが全会一致で原案通り可決された。
衆議院議員からは
太田典礼(社会党)、福田昌子(社会党)、大原博夫(協同党)、柳原亨(日本民主自由党)、加藤シヅエ(社会党)、武田キヨ日本民主自由党)。
参議院は、
谷口弥三郎日本民主自由党)、竹中七郎(日本民主自由党)、中山寿彦(日本民主自由党)、藤森真治(緑風会)。
↑のうち医者をこの色で色づけした。

これが優生保護法なのであるが、なんと、戦前の国民優生法よりもさらに「優生思想」が色濃くなっているのである。まず、国民優生法にはなかった「不良な子孫」ということばが導入された。また、国民優生法にはなかった「らい疾患」と、遺伝性ではない精神病・精神薄弱が、優生手術の適用として追加されることになる。そして、対象者も「四親等以内の血族関係」へと拡大される。

「優生保護法」成立。「不良な子孫の出生防止と母体保護を目的」に、「優生手術(いわゆる不妊手術)」と「人口妊娠中絶」の規定が記された。
太田典礼らの原案より、中絶の要件が狭められ、中絶するには優生保護委員会の決定が必要とされた。また、指定医師の規定が設けられた。都道府県の指定した医師が条件を守って行う限り、刑法の堕胎罪の適用はしない、ということである。指定医師の指定権は都道府県医師会が持ち、その指定権の行使には、厚生大臣はもとより、何人も関与できないとされている。
なお、第一条の「この法律の目的」には、戦争中の『国民優生法』を引き継いだ「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」が入っている。

優生保護法を、超党派で、衆議院、参議院両院同時提出。第二国会で、まず参議院先議となり通過、それから衆議院を通過して、法案は成立。7月13日公布。
9月11日優生保護法実施
9月29日薬事法改正

1949   4月26日厚生省、避妊薬許可基準決定

4月29日エーザイ、避妊薬「サンプーン」発売(膣内に挿入し精子を殺す)。戦後の新薬第一号。「新薬」という言葉はこの時生まれた。

4月30日厚生省、避妊薬7品目の発売許可

5月5日厚生省、避妊薬の市販をエーザイ、山之内製薬などに許可

6月マッカーサー司令部が「人工制限問題は占領業務外である。産児制限は個人の判断と決定に待つ問題である」と発表。

10月28日人口問題審議会(5月内閣に設置)、指導機関を設けて産児調節の推進をするよう答申

1月20日優生保護法施行令公布。厚生省が優生保護法で認められた妊娠中絶に関し、妊娠8ヶ月以上は適用外、経済的・社会的理由は認めずと通達。

5月31日優生保護法改正(経済的理由による妊娠中絶認める)

6.24優生保護法の一部改正施行(経済的理由による妊娠中絶認める)

1950      
1951   人工妊娠中絶の増加に関連し、受胎調節の普及をはかることを閣議で決定了解。

エーザイの避妊薬「サンプーン」錠が国家検定薬となる。

 
1952 インドで第三回国際産児調節会議開催。

国際産児調節連盟が国際家族計画連盟へと名称変更。
英国で世界家族計画連盟創設。会長マーガレット・サンガー。

6月受胎調節普及実施要領発表(厚生省)
受胎調節実地指導員制度発足。

10月30日マーガレット・サンガー来日。

5.17優生保護法一部改訂公布。手続きの簡素化=優生保護審査委員会が廃止され、指定医の認定、本人・配偶者の同意だけで中絶ができるようになった。優生手術の枠を遺伝性ではない精神病にも拡大改正(指定医の認定だけで中絶ができるようになった)。人工妊娠中絶の個人負担費軽減。
1953   8.17国際家族計画連盟(ストックホルム)に日本産児調節連盟代表として馬島チモ出席 6月12日厚生事務次官通達「母体外において,生命を保続することのできない時期」を「妊娠第八月未満」とする(28週まで)
1954 ローマにて世界人口会議開催 4月マーガレット・サンガー来日、衆議院委員会で講演。
4月15日避妊運動の第一人者マーガレット・サンガー、参議院厚生委で「人口問題の解決に受胎調節を」と意見陳述。米婦人が日本の国会で意見を述べたのは初めて。
4月18日サンガーの指導により日本家族計画連盟発足。大会開催。
日本家族計画普及会(後の協会)18日発足、新聞「家族計画」第一号配布

8月人口問題審議会、人口対策として家族計画を強力に推進すべき旨政府に進言

 
1955   3月受胎調節普及運動月間を毎年3月に定める

6月1日〜2日 大10回日本助産婦総会、受胎調節実施指導にのりだすことを決意、約1,000人参加

7月受胎調節実地指導員の避妊薬販売を認める特例決まる(優生保護法改正)。

低所得者に対する避妊器具・薬品配布。

10月24日〜29日、家族計画連盟(会長マーガレット・サンガー、議長インドのO・P・ラマラウ)主催、日本家族計画連盟(会長・下条康麿、副会長・馬島|、加藤シヅエ、古屋芳雄、事務局長・北岡寿逸)共催の、東京で開催された第5回国際家族計画会議開催。芝公園マソニックビル。16カ国、500名参加。会議の主題は「人口過剰と家族計画」
グレゴリー・ピンカス博士はプエルトリコの女性を対象に、黄体ホルモン剤300mgを用いた臨床成績で、確実な避妊効果があったことを発表(←経口避妊薬の原点)。

10月26日第1回受胎調節普及全国協議会、厚生省主催、家族計画運動の進め方について

日本において、ピルの臨床試験が開始

厚生省、生活困窮者受胎調節指導実施細目なる。器具薬品は公費負担

日本家族計画普及会研究委員会結成

 
1956 アメリカのグレゴリー・ピンカス博士、1956年にプエルトリコのサンファンで経口避妊の実験を開始し、1954年ハ−ツらが経口投与でエストロゲン活性を失わないステロイドの合成に成功したこともあり、1959年から経口避妊薬としての研究開発が進んだ。 4月日本家族計画普及会、社団法人認可

11月第一回家族計画全国普及大会が東京で開催。厚生省、日本家族計画連盟共催。1,300人参加

保健所を通じ、全国的に家族計画の普及が進む。

 
1957   3月東京都家族計画協会発足

月経困難症の治療薬としてノアルテン錠(高・中用量ピル)がシオノギ製薬で販売される。

1957〜66年にかけて、高用量ピルが月経痛治療薬や月経周期調節薬として店頭で販売されていたのだ。

 
1958   4月厚生省、受胎調節家族計画普及事業を市町村に移管する方針を打ち出す。  
1959   月経困難症の治療薬としてエナビット錠(高・中用量ピル)が大日本製薬で販売される。

4月家族計画普及行政が公衆衛生局から児童母子衛生課へ所管がえ。

6月マーガレット・サンガー来日、岸総理大臣と会見

 
1960 米国のFDA、サール社によって開発されたホルモン配合剤「エナビット10」(ノルエチノドレル・メストラノール配合剤)を経口避妊薬として承認。続いてヨーローッパでも認可する国が増える。 この頃ピルが日本でも使われ始める

わが国でも1960年、経口避妊薬として、エナビット(ノルエチノドレル 2.5mg、メストラノ−ル 50μg)などを用いて治験が始められ、1962年には承認申請が行われている。

7月日本家族計画連盟、社団法人認可

 
1961   厚生省、経口避妊薬調査会設置。

国鉄全世帯に対する家族計画指導開始。

 
1962   厚生省、ピルの認可基準を作成。

7月厚生省、「経口避妊薬の製造承認申請書の添付必要とする資料」を公布。

全国母子健康センター連合会設立。

製薬会社が厚生省にピルの製造許可申請をする

9月日本家族計画普及会を日本家族計画協会に改める

 
1963 シンガポールで第7回国際家族計画大会が開催 厚生省、新婚者対策実施要項を全国に通達。  
1964   3月ピルに関して、厚生省・医療品特別部会が開かれた。
6月ピルに関して、厚生省が、産婦人科関係者との特別部会。

日本産婦人科学会の内分泌委員会において、避妊用低用量ピルは、医師が注意して投与するならば 2年間程度の使用はそれほど問題がないだろうとの結論が出された。

厚生省、ピルを“要指示薬”、2年間の使用期限付き、検査を含む使用上の注意を添付書に記載する等、諸条件つきでの認可の意向を示す。

7月日本家族計画連盟から、ピル認可は時期草々という反対の決議文が厚生省、日本医師会に配布(なぜか70年代になると、ピル推進へと変貌)。

日本でアノブラール錠(シューリング社)が排卵抑制治療薬として販売される。これは避妊目的にも使用される。

家族計画の予算の中に新婚学級指導入る。

小林厚生大臣「堕胎天国の汚名をなくしたい」と発言

 
1965 ベオグラードで第二回世界人口会議

韓国で第1回西太平洋地域家族計画大会

米国のニューヨーク悪徳撲滅協会(New York Society for the Suppressin of Vice)の書記アンソニー・コムストック(1844〜1915)、積極的なロビー活動で、1872年に「不道徳目的でのわいせつ文書・物品の取引・流通撲滅法」、いわゆるコムストック法(「わいせつ」とされる郵便物を検閲し、その郵送を禁止)通過させたが、1965年廃止。

2月ピル認可を前提とした新医薬品特別部会の審議会が開かれる予定であったが、突如中止に。

3月日本産婦人科学会内分泌委員会(委員長は小林隆・東大教授)が「経口避妊薬は使用法を慎重にすれば、十分使用に応える」と認めた。
これを受けて7月の厚生省・医薬品特別部会で認可のはずが、前日になって突然に審議が中断されるという事態にいたった。

母子保険法成立。

マーガレット・サンガーに勲三等

一部の経済学者から「単なる経済的理由の中絶は刑法の定める正当な業務行為の理念からはみだすおそれがある」として、「経済的理由を削除すべき」という改正議案が示された。
1966 9月マーガレット・サンガー死亡(生年は諸説色々) 1957〜66年にかけて、高用量ピルが月経痛治療薬や月経周期調節薬として店頭で販売されていたのだ。  
1967 英国「人工妊娠中絶法(Abortion Act)」制定。西欧諸国の中絶自由化に大きな影響を与える。出生前診断が可能に。

WHO(世界保健機構)がピルの有効性と安全性を認める。

デンマークでピルの使用可に。

東京で第1回アジア家族計画セミナー

沖縄で受胎調節指導員認定講習会を実施。

厚生省副作用を理由にピルの製造許可せず

「成長の家」が中心となって「優生保護法改廃期成同盟」結成
1968 韓国で家族計画研修会とセミナー実施。日本からも参加。 財団法人家族計画国際協力財団発足(会長・岸信介) 10.18重宗雄三参院議員(自民党ら)、優生保護議員懇談会結成(同法の改正、政治の舞台へ)
1969 米国のFDA、1錠中にエストロゲン量0.05mg以下の低用量ピルの使用を勧告。

インドネシア家族計画開催。

エストロゲンによる性交後ピルは、ハスペルズ(Haspels,1969)らによって、オランダで最初に報告されたのが始まりである。

カナダでは、中絶委員会が設けられている病院で、中絶委員会によって「妊娠の継続が母体の生命や健康を脅かす」と認められた場合だけ、中絶手術が受けられるようになった。

人口問題審議会中間答申
「人口の先細りをふせぐために出生力の回復が必要。政府はそのための社会開発を強力に推進せよ」

厚生省 日本医師会に委嘱して優生保護法実態調査を行う

3月国際家族計画連盟に10万ドル、日本政府が初の家族計画海外援助

「成長の家政治連合(成政連)国会議員連盟」結成
1970 海外でピルの副作用として血栓症や発癌性などがマスコミで取り上げられる。高用量ピル使用の女性に、肝障害、血栓症、高血圧などの副作用が問題となる
これらの副作用がエストロゲンの量に起因することが判明

FDAとIPPF(International Planned Parenthood Federation:英国国際家族計画連盟) がエストロゲンの量を50μg以下にするように各製薬会社に勧告

  日経連が「雇用政策研究会報告」を発表。労働力人口増加対策の一つとして優生保護法改定をあげる

1月21日日本のリブ,初めての街頭行動を行う。夏から改悪反対運動に取組んでいた。

4月20日厚生省、優生保護実態調査結果発表、年間人工妊娠中絶者110万人と推計。総理府、産児制限に関する世論調査結果発表

5月障害児殺害事件(神奈川)に対する減刑嘆願反対運動

8月日本医師会が前年の優生保護法実態調査に基づいて「優生保護対策について」を発行。「成長の家」の動きには反対しながらも、「先天性異常児」発生の予防として、中絶を許す条件に胎児側の理由を追加すべきである…と論じる。

1971      
1972   5厚生省 ピルを「要指示薬」(医者の処方箋が必要)に指定。
6処方せんのない店頭販売を禁じる措置がとられた。
5.23政府・自民党が優生保護法改正案を閣議決定。5.26国会に提出。ポイントは2点。どちらも中絶の要件についてで、これまでは「医学的・経済的理由」でゆるされた中絶の「経済的理由」をはずし、「医学的理由」のみにしようとした。また出生前診断が進んできたことを背景に「胎児に重度の精神・身体障害があるとわかった場合には中絶してもよい」という、いわゆる「胎児条項」を加えようとした。たちまち女性や障害者たちからの反対の声が巻き起こり、実質審議は行われず、廃案。

6.6「ぐるーぷ闘う女」、優生保護法改正案は「産む自由・産まない自由」を奪うものと反対集会

6.8日本家族計画連盟(会長古谷芳雄)、優生保護法改正案は「国民生活を無視する暴挙」と反対声明

10.15「リブ新宿センター」(9.30開所)、「中年リブ」、「赤い六月」などリブ・グループ主催「優生保護法改正に反対する全国同時デモ」(東京・札幌・大阪・福岡)

1973 1月米国テキサス洲の妊婦がおこした中絶の権利を求める裁判で、連邦最高裁は全米での中絶を認める判決(それまで多くの州では中絶は違法だった)。

海外でエストロゲンの量が50μg未満の低用量ピルが開発される。

デンマークで中絶合法化

2月人口問題協議会発足

妊婦・乳児検診の一部無料化。

12月『朝日新聞』に「ピルひそかなるブーム」という記事が。月経困難症のための治療薬(高・中用量ピル)が口コミや女性週刊誌等の情報で女性達に避妊薬として転用できることが伝わり、産婦人科を訪れる女性が増えたとか。

10月23日 日本家族計画連盟主催「産児制限を考える」討論会中に中ピ連、「ピルを解禁せよ」と押しかける

日本母性保護医協会(現・日本母性保護産婦人科医会)は会報で、避妊への転用を容認する意見を発表。東大分院の小林拓郎産婦人科科長も容認。厚生省薬務局の松下廉蔵局長も容認。

12月社会党の参議院議員須原昭二(薬剤師会)がピルの使用に関する統一見解を求める要望書を提出。
田中首相が回答「薬品を、治療薬として承認している以外の効能効果に着目して使用することは、法の禁じているところではない」「医師の処方があれば、薬局での購入も可」との答え。

2「侵略=差別と闘うアジア婦人会議」など、優生保護改悪阻止請願署名運動始める
3.25日本家族計画連盟、優生保護法改正反対声明
3.26優生保護法改正の71特別国会再提出を阻止する東京集会、20団体参加
4.8優生保護法案改悪案再上程阻止集会・デモ、婦民主催
5.11優生保護法改正案、国会に再提出
5.12優生保護法改正案に反対するウーマン・リブ団体の30人、厚生省に押しかける
5.12「青い芝の会」(日本脳性マヒ者協会)、「優生保護改正案は障害児と健康児を差別し、重度身障者の生存権を否定するもの」と抗議文を厚相に手渡す。14日50人、厚生省に抗議
6.30〜7.1優生保護改悪を阻止する全国集会、「産める社会を、産みたい社会を」、28団体参加の実行委員会よびかけ

7.18優生保護法を改正して赤ちゃんの生命を守る全国大会、自民党本部主催、600人

9保守派、優生保護法から「経済的理由」の削除する改正案再び国会上程、継続審議となる。

1974 8月ブカレストで世界人口会議 1月社会党の参議院議員須原昭二が「ピルを正式に承認すべきではないか」と再び質問書を政府に提出。
2月5日田中角栄首相は答弁書の中で「ピルの使用を認める考えはない」
日本では月経困難症などの治療薬として認可されている高用量・中用量ピルが「適応外処方」で、医師の判断で避妊薬として転用されることに。

3月国際人口問題議院懇談会(会長・岸信介)
人口問題審議会、人口増加抑制策を提言。

7月2日第1回日本人口会議、東京で開催。人口問題研究会、日本家族計画連盟、家族計画国際協力財団、人口問題協議会の共催で。「子どもは2人まで」の国民的合意実現に努力、ピル公認など“人口増に歯止め”の大会宣言を採択。

8月子宮内に挿入する避妊具IUD(Intra Uterine Device)の解禁を、母体保護法指定医師の団体や、日本産婦人科学会では、治療のデータを集計して認可を厚生省に要請。厚生省の諮問をうけていた中央薬事審議会医療用具特別部会は「認可」の答申を厚生省に提出。厚生省はIUDの正式認可にふみきった。
大田リング(太田典礼(1900〜1985)が開発)、優生リングなど、当時のIUDはリング状の形態をしていて、挿入には頚管(子宮の入り口)を拡張して入れなければならない閉鎖型IUDだった(いわゆる、第1世代IUD)。  

4.23総評婦対部、優生保護法改正案阻止行動で国会審議傍聴
5.22優生保護法改悪阻止実行委員会など、衆院議員面会所におしかけ集会
5.24優生保護法改正に反対し、5婦人団体、衆参両院議長に抗議電報

5.22優生保護法改正案、衆院本会議で修正・可決
6.3優生保護法から「経済的理由」の削除する改正案審議未了で廃案

1975 世界婦人年

国際婦人会議、メキシコで開催

1月荻野久作死亡。

4月5日 中ピ連、日本産婦人科学会総会(京都)に押しかけ、ピル解禁勧告を政府に提出するよう要求
4月5日 日本医学会総会、ピルの副作用を警告(ピル人口40万人)

11月加藤シヅエ(日本家族計画連盟会長)、勲1等瑞宝賞を受ける

11.12厚相、妊娠中絶期を「8ヶ月未満」から「7ヶ月未満」に改正する方針発表
1976     1月厚生省の通達により、人口妊娠中絶は妊娠6ヵ月までに。
1977   1月厚生省新規予算で家族計画特別相談事業(遺伝相談)決まる。日本家族計画協会に委託。

10月日本家族計画協会遺伝相談センターオープン

厚生省、リッピズループ(lippes loop)、FDIなど、新型の簡単に挿入できる開放型IUD認可。いわゆる、第二世代IUD。

性交の後にピルを飲んで受精卵が着床しないようにするしくみを、ヤッペという学者が発表。ヤッペ法。

厚生省に、銅付加IUDの認可申請がされたが、1990年に申請が中断されたままになっていたが、1999年にやっと認可。2000年から日本オルガノン社が販売。

 
1978 世界初の体外受精児、英国で誕生

WHO(The World Health Organization:世界保険機関) がピルのホルモンの用量を極力減らすことを勧告

   
1979      
1980 フランスで自然な流産を誘発する抗プロゲステロン作用を持つ人工妊娠中絶薬「RU486」が開発 11月優生保護法39条可決  
1981      
1982     再び、自民党の村上正邦が、優生保護法から「経済的理由」を削除しようという改正案が厚生省から提出される予定であることが、国会の議題に上る。前回同様、女性達の反対の声が起こり、このときは国会に提出されずじまい。

8月優生保護法一部改正に日本家族計画連盟が反対声明。

1983   5月大正製薬がマイルーラ発売(2001年製造中止) 3月「中絶予防対策の早期実現を!!」日本家族計画連盟が生保護法改正に再度反対声明。

5月優生保護法改正案国会提出断念。

10月日本初の体外受精児誕生。

1984 英国フィーメール社で女性用コンドーム開発・発売   5.30厚生省が人口流産剤「プレグラディン」を世界初認可。
1985   日本産科婦人科学会と日本母性保護医協会(現・日本母性保護婦人科医会)が低用量ピルの認可に向けた臨床試験を要望。

12月5日太田リングの開発者、太田典礼、死亡(1900〜)

 
1986   厚生省、「経口避妊薬の医学的評価に関する研究班」を設置。臨床試験のガイドラインを発表。

低用量ピルの治験が製薬各社で開始された。厚生省への製造承認申請がされたが、厚生省は承認せず。

 
    低用量ピルの治験開始。  
1988(平成2) フランスで自然な流産を誘発する抗プロゲステロン作用を持つ人工妊娠中絶薬「RU486」が認可。 2月加藤シヅエ、長年、家族計画問題に貢献した功績で日本人初の国連人口賞を受賞

3月社団法人東京都家族計画協会解散、事務局は家族計画協会が継承

7月以降製薬会社が低用量ピル9社16品目について厚生省に承認申請。

 
1989(平成3) フランスで、自然な流産を誘発する抗プロゲステロン作用を持つ人工妊娠中絶薬「RU486」が市販された。

デンマークの医師が女性用コンドームを考案。

2月(〜平成9年2月) 低用量ピル認可に関して、厚生省・中央薬事審議会・配合剤調査会で審議。 12月18日厚生省の公衆衛生審議会は、優生保護法に基づく妊娠中絶できる期間を満23週以前(満24週未満)から満22週未満に短縮する答申を出す(厚生省は91年1月から変更する方針)。

12月妊娠中絶できる時期の短縮に関し、「国際婦人年日本人大会の決議を実現するための連絡会」(主婦連、婦人有権者同盟など加盟50団体、傘下2,300万人)や、土井委員長を始め、社会党の女性国会議員17人らから、要望書が厚生省に6件提出される。このほか「短縮反対」の要請文も2件出される。

1990 12月10日米国FDA、女性の上腕部に埋め込むだけで、5年間にわたって避妊効果が得られる避妊具「ノープラント」の使用を許可。 製薬会社9社が低用量ピルの認可申請。

3月20日ライオン鰍ヘ3分間で結果が分かるオランダ製の妊娠検査薬を発売。

7月20日製薬会社3社が厚生省に、低用量ピルの製造・輸入承認申請を提出。

1月27日妊娠中絶できる期間の短縮に反対する女性たちが大阪市で「中絶できる時期の短縮に反対する集会」を開く。主催は大阪の女性団体の集まり「中絶時期短縮に反対する大阪実行委員会」。

2月23日女と健康連絡会の主催で緊急集会「女ぬきで決めるな! 中絶できる時期の短縮」が開かれる。日本婦人会議、82優生保護法改悪阻止連絡会など50団体(2月6日現在)が参加。

3月19日厚生省は優生保護法に基づく人口妊娠中絶のできる最大期限の基準を、現行の満23週以前(満24週未満)から満22週未満に変更、91年1月1日から実施することを決めた。

3月20日厚生省は厚生事務次官名で娠中絶期限満22週未満を各都道府県あて通知。

3月23日福岡県嘉穂郡稲葉町議会は議員提案の「中絶規制の強化に反対する意見書」を全会一致で採択。

1991 WHO、注射方式の避妊法「デポ・プロベラ」を認可していない国、米国、日本、オーストラリアに対して早急な認可を呼びかける。 4月医薬品メーカーのヤンセン協和は90年11月に厚生省に承認を申請した低用量経口避妊薬ピルの販売を協和発酵工業と田辺製薬の2社に委託。9社6グループが7種類の低用量ピルを製造承認申請中。

松本精一(家族計画協会理事長)が勲1等瑞宝賞を受ける。

 
1992(平成6) フランスの医薬品販売業者がフランスとスイスで女性用コンドームを販売。

1月31日米国FDAの諮問委員会は、女性用コンドームの米国内使用を認めるかどうか検討し、安全性と効果を将来再評価するとの条件付で承認するよう答申。

10月29日米国FDAは、1度の注射で3ヶ月間、安全に避妊ができる新避妊薬を認可したと発表。Pharmacia社・製造。「Depo-Provera(デポ・プロヴェラ)」
米国1979年にFDAは避妊としての利用は認可しプロジェスティンというホルモンなかったが、1992年10月ついにFDAは避妊としての認可。

厚生省・中央薬事審議会配合剤調査会での審議がほぼ完了

2月厚生省はピルの認可を見送り。エイズの広がりを加速させる恐れがあるとして「公衆衛生上の見地」から継続審査と決めたのである。土井脩薬務局新医薬品課長は、中央薬事審議会とも相談、ピル審査を凍結することに(中断は1995年まで続く)。

3月18日厚生省の中央薬事審議会は、経口避妊薬(ピル)の解禁がエイズ感染を加速することにつながりかねない、との公衆衛生上の判断から、夏にも認可が予想されていたピルについて承認を当分の間見送ることを決め、製薬メーカーに通知。

3月日本家族計画協会の医学委員会は「低用量ピル認可とエイズまん延は結びつかない」との見解をまとめ、機関紙に発表。

 
1993 米国FDA、女性用コンドーム認可。

WHOは、「デポ・プロベラ」の商品名等で市販されている「注射避妊薬」の使用を認めると発表。

5月12日低用量ピルの早期認可を求めて、日本産婦人科学会、日本母性保護医協会、日本家族計画協会、日本家族計画連盟が厚相に要望書を提出。  
1994 9月国連主催の国際人口開発会議、カイロで開催。女性のリプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)の保証を取り上げた。    
1995 9月国連主催の世界女性会議、北京で開催。

10月英国政府の医薬安全委員会が第三世代ピルは従来のピルよりも血栓症のリスクを高めると発表。
ドイツでは「現在問題のない人は取り換える必要はない」とする一方で、初めて使う女性に対して12月から半年間の使用を制限することを発表した。
ノルウエーでもこのピルの使用を慎重にとの勧告が出された。

9月「抗がん剤とかいよう治療薬の二つの薬を併用すれば、ほぼ妊娠中絶できる」とする臨床試験データを、米ロチェスター大医学部のエリック・シャフ博士らが十四日付の米医師会雑誌に発表した。研究グループは、十八歳以上で中絶を希望した妊娠八週以内の女性百人に、本人の承諾を得て、臨床試験した。
まず抗がん剤のメソトレキセートを妊婦に注射。五―七日後に、かいよう治療薬のミソプロストールを座薬として与えた。
同博士によると、結果は九十八人が自然流産して、中絶に成功。出血や吐き気、下痢などの副作用はあったが、九十一人が「我慢できる症状だった」と答えたという。

4月、厚生省・中央薬事審議会・配合調査会での審議が再開

7月13日「女性と健康ネットワーク」、「日本家族連盟」などの70人以上の女性たちが連名で、低用量ピルをはじめとする、女性たちが主体的に選択できる避妊法の普及などを求める要望書を、井出正一厚生大臣に手渡す。

9月12日厚生省・中央薬事審議会・配合調査会は、「エイズとの関連性が薄い」とピル使用認可の方針を固める。

 
1996   7月9日菅直人厚生大臣、日本外国特派員協会主(東京・有楽町)催の昼食会で講演、「来年にもピル認可の見込み」と発言。 6月18日不妊手術や人工妊娠中絶に関する諸規定を定めた優生保護法の改正案が参院本会議で可決、母体保護法が成立。
9月26日母体保護法が施行。
1997(平成9) 5月国連人口基金、『97年版人口白書』を発表。リプロダクティブ・ライツ(性と生殖に関する権利)の保証を全面的に取り上げた。

12月ドイツで、第三世代ピルによるリスクは大ニ世代ピルと変わりがないということで、第三世代ピルへの規制が解除。

新薬を承認するかどうかの中央薬事審議会の審査は、調査会→特別部会→常任部会の三段階で行われる。

2月エイズ拡大につながる恐れがあるなどとして承認が見送られてきた経口避妊薬の低用量ピルについて、中央薬事審議会配合剤調査会(座長・河村信夫東海大医学部教授)は十六日までに「医薬品としての安全性、有効性が確認された」とする調査報告書をまとめた。二十五日に開く医薬品特別部会に提出する。

2月25日中央薬事審議会医薬品特別部会(部会長・上田慶二東京都多摩老人医療センター院長)は二十五日の会合で、経口避妊薬の低用量ピルについて、安全性、有効性をほぼ認めた上で、エイズなど性感染症への影響などについて、近く公衆衛生審議会の意見を聴き、結論を出すことを決めた。

3月厚生省・中央薬事審議会・医薬品特別部会は審査を開始。医薬品特別部会は、ピル解禁がエイズをはじめとする性感染症の増加に与える影響を探るため、公衆衛生審議会(厚相の諮問機関)に意見を求める異例の措置を取り、意見を求められた公衆衛生審議会は、感染症の専門家らで構成する伝染病予防部会で3回にわたって審議。
6月16日厚生省の諮問機関である公衆衛生審議会伝染病部会(部会長・山崎修道国立感染症研究所所長)は十六日、経口避妊薬の低用量ピルについて、エイズを含む性感染症(STD)の予防策を強化することを条件に、解禁を事実上容認する内容の報告書をまとめた。

2月中央薬事審議会・医薬品特別部会がピルの有効性、安全性を認めたうえでエイズなど性感染症への影響について公衆衛生審議会に意見を求める。
6月公衆衛生審議会の報告を受け中央薬事審議会特別部会が、性感染症対策の強化を条件にピルを認可する方針を発表。世論を聞いたうえで結論を出す意向を示す。6月ピル審査、情報公開し国民の意見を求め、常任部会での審議に反映させることに。

6月27日用量ピル認可に関して、厚生省・中央薬事審議会・医薬品特別部会で審議開始。

8月12日厚生省・中央薬事審議会・医薬品特別部会(部会長・上田慶二郎・東京都多摩老人医療センター院長)が12日会合で継続審議とすることを決めた。低用量ピル継続審議の答え。

10月低用量ピル認可に関して、厚生省・中央薬事審議会・医薬品特別部会で審議し、承認。

5月15日超党派の女性議員と女性団体代表らが、低用量ピルの認可や堕胎罪の撤廃などを求める要望書を小泉純一郎厚相に提出。手渡したのは、参議院議員・堂本暁子(新党さきがけ)、樋口恵子東京家政大学教授、芦野由利子日本家族計画連盟事務局長ら。345人が賛成者として名を連ねた。

10月24日女性用のフィルム状避妊薬に内分泌かく乱物質の非イオン系合成界面活性剤が使用されていることが市民団体の調べなどで分かり、「きれいな水といのちを守る合成洗剤追放全国連絡会」(渡辺好之事務局長)、東海大学医学部(内分泌生理学)の坂部貢助教授が厚生省に使用中止の指導を申し入れる。

10月28日厚生省・中央薬事審議会・医薬品特別部会が、低用量ピルを医薬品として承認する見解をまとめる。

12月4日「止めよう!ダイオキシン汚染・関東ネットワーク」が厚相、中央薬事審議会会長らにあてて低用量ピルの認可について慎重審議を求める要望書を提出。
12月16日「ピルの安全性を考える会」が相、中央薬事審議会会長らにあてて低用量ピルの認可について慎重審議を求める要望書を提出。

12月17日低用量ピル認可に関して、厚生省・中央薬事審議会・常任部会で初の会合(部会長・内山充日本薬剤師研修センター理事長)。

 
1998 9月2日米国FDAが薬品会社ジネティクスに対し、事後に服用する経口避妊薬セットの販売を初めて認可。 「ピルは内分泌かく乱物質」との理由から承認反対の声があがる。中央薬事審議会常任部会が内分泌かく乱化学物質とピルとの関係調査を提起、審議が再び後退する。厚生省がピルの有効性と安全性に関する審議会の「中間とりまとめ」を公表。  
1999(平成11) 3月オランダのハーグで人口会議「ハーグ国際フォーラム」開催。

3月国連人口開発委員会

6月人口開発特別総会がNYで開催

英国政府の諮問を受けた医薬委員会は1995年の警告を修正し、第三世代ピルは第一選択として使えること、情報の徹底をはかること、という主旨の声明を出す。

ドイツで経口中絶薬RU-486認可。

2月23日参議院議員会館で厚生省の担当課長が、市民グループに、ピル審議の見通しを説明。

3月2日女性の国会議員約40人と8つの民間団体が宮下創平厚相に、3日の中央薬事審議会で低用量ピルを即刻解禁するよう求める要望書を提出。

3月3日中央薬事審議会・常任部会がそれまでのすべての審議のとりまとめを行う。しかし、この時点では承認の答申は出されなかった。6月に開かれる常任部会で承認が決まる見通しになった。

6月2日中央薬事審議会・常任部会(部会長=内山充・日本薬剤師研修センター理事長、24人)で承認を「可」とする答申。央薬事審議会が、IUDのうち、国内では未認可だった銅付加IUDを承認することを決め、常任部会に報告。
16日ついに厚生省(宮下創平厚相)、低用量ピル認可(9月一般利用可能。ただし低用量ピルの内、第三世代のマーヴェロン社のピル(日本オルガノン(株)申請)については、厚生省が「処方にあたってはその他のピルが適切でないと考えられる場合に投与を考慮する(第一選択薬とはしない)旨を添付文書に盛り込むこと」との通達を出すようにしたので、マーヴェロン社と決裂、一般利用不可能に)。
7月厚生省、銅付加IUD認可。いわゆる第三世代の薬剤付加IUD。(2000年1月24日、日本オルガノン社一般販売)。
9月低用量ピル一般利用可能に。
11月厚生省、女性用コンドーム認可(大鵬薬品興業が一般販売するのは2000年4月から)。

 
2000 スペインで経口中絶薬RU-486認可。

9.28ついに米国のFDAが経口中絶薬RU486認可! 商品名「Mifeprex」(公式HP)(ダンコ・ラボラトリーズ社販売)

10.05米国FDA、注射式避妊法「ルネル(Lunelle)」認可

1銅付加IUD、日本オルガノン社が輸入販売。

4.25女性用コンドームが大鵬薬品興業から「マイ・フェミィ」の商品名で一般販売。製造元は英国フィーメール社で、1984年から、世界24カ国で発売しているとか。

 
2001 11.20避妊パッチ『オーソ・エブラ(Ortho-Evra)』(オーソ・マクニール社・製造)を承認した。 ピル(経口避妊薬)に使われているのと同じホルモンを、皮膚に貼り付けたパッチから放出し、避妊効果を持たせる。安全性と効果はピルと同等と確認されている。ピルは毎日服用する必要があるが、このパッチは1週間に1度忘れずに貼り付けるだけでいい。  大鵬薬品興業がマイルーラの製造中止(1983〜2001年)。  

▽米国食品医薬品局(FDA) 米厚生省に属し、米国が生産・輸入する食品や薬品、化粧品などの品質を管理する国家機関。責任者に対して製品の改善や自主回収を求めることができる。職員数は9000人で、うち1100人が捜査・調査官。

▽中央薬事審議会 薬事法に基づき、薬事に関する重要事項を調査・審議するために設けられた厚生大臣の諮問機関。新薬の承認や医薬品の再評価、副作用の被害認定などについて答申する。常任部会のほか医薬品、血液製剤、安全対策などの特別部会がある。
 常任部会が中央薬事審議会の最高決定機関。
 新薬を承認するかどうかの中央薬事審議会の審査は、調査会→特別部会→常任部会の三段階で行われる。

 

 *連合国側最高司令官 第二次世界大戦で、米軍に敗戦した日本は、米軍の占領下におかれた。それを日本では、マッカーサー元帥率いる「進駐軍」「GHQ(General Headquater)」って呼ぶでしょ。
 ところが副島隆彦によると、本当は「SCAP エス・シー・ピー・エー(Supreme Commander for Allied Powers シュープリーム・コマンダー・フォー・アライド・パワーズ)」「連合国側最高司令官」だって。「アメリカでは今でもマッカーサー統治時代の日本の軍事政府のことをSCAPと呼ぶ」って。
 皇居の前の第一生命ビルに「連合国総司令部」を設置して、「GHQというのは、占領時代に米軍兵士たちが自分たちの司令本部のことをそう呼んだのを、ここに出入りした日本人の官僚や新聞記者たちが思い違いをしたままつかったのだろう」とのこと。

 

 

参考資料