避妊の歴史

 

 


松沢呉一『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版)2000年
RURIKO『確実な避妊法』『望まない妊娠・中絶と女性の人生について』
SA『避妊の歴史』
藤目ゆき『性の歴史学 公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ』(不ニ出版) 1997年3月25日初版第二刷(普及版)発行
匠雅音HP『匠研究室』
捧げます

 


 中絶に関しては、胎児の生命尊重を訴え中絶禁止を訴えている方々がいらっしゃいます「プロ・ライフ」。
 女性の不幸を減らすための選択肢として中絶を容認なさるのが「プロ・チョイス」。
 中絶を減らすために、避妊の充実を訴える方がいらっしゃいます。
  中絶はおろか、避妊すら禁止しようという考えの方々がいるのですね。

 

 避妊さえ、犯罪として取り締まられていた時代があった。
 アメリカでは、かつては避妊は犯罪として厳しく取り締まられていました。
 米国のニューヨーク悪徳撲滅協会(New York Society for the Suppressin of Vice)の書記アンソニー・コムストック(1844〜1915)は、積極的なロビー活動で「不道徳目的でのわいせつ文書・物品の取引・流通撲滅法」、いわゆるコムストック法(「わいせつ」とされる郵便物を検閲し、その郵送を禁止)通過させた。「わいせつ」とされる郵便物を検閲し、その郵送を禁止させる法律がありました。「わいせつ」の中には、避妊の情報も含まれていました。その法律が廃止されたのが、なんと1965年! ほんのごく最近でした。

 1914年、米のマーガレット・サンガー、月刊誌『ウーマン・リベル(女反逆者)』を発刊し、避妊への意識を高める活動を始めたが、コムストック法(「わいせつ」とされる郵便物を検閲し、その郵送を禁止)で起訴され、ヨーロッパ逃亡。1916年、マーガレット・サンガー、米国へ帰国、不起訴。NYで初の産児制限専門クリニック開設し避妊方法の研究・助言したが、9日で警察に連行、裁判、30日の懲役。
 実は1965年までは,マサチューセッツ州、コネチカット州ほか米国の多くの州において避妊は違法でした。女性が膣内に挿入して子宮内に男性の精液が入るのを防ぐ避妊キャップ(ディアフラグマ)の処方、避妊のためにコンドームを勧めることすら違法でした。

 コネティカット州の家族計画連盟(Planned Parenthood League)重役のEstelle Griswold (女)がコネティカット州最高裁相手に避妊の合法化を目指して訴訟をして敗訴し、アメリカ合衆国最高裁に上訴してから、既婚者の避妊が合法化されるようになりました(Griswold v. Connecticut)

 1972年、アメリカ合衆国最高裁が、避妊法の教授や配布を夫婦間だけに限定するマサチューセッツ州の法律への訴えを認め、未婚の女性の避妊法の使用を法律で正式に認めた(Eisenstadt v. Baird)。

 アメリカの多くの州では中絶は犯罪でしたけど、1973年、米国テキサス洲の妊婦がおこした中絶の権利を求める裁判で、連邦最高裁は全米での中絶を認める判決を下しました。(Roe v. Wade)
 フランスでは、1920年に中絶と避妊の宣伝を禁止する法案が可決。

 1967年、フランスで避妊容認の法律が。
 中絶は犯罪だったけど、大勢の女性たちが闇で中絶をしていました。
 強姦されて妊娠した少女マリ・クレールが中絶、逮捕されて刑務所に送られました。大勢の女性有名人たちが「私たちも中絶をしたことがある」と声明を発表。
 1975年、中絶合法が5年間の時限立方として成立。1979年、フランスで5年間の時限立法として成立した中絶法が若干の改正を経て恒久立法となりました。
 英国でも、1969年に、未婚の女性に避妊法の使用が正式に法律で認められました。
 1965年にルーマニアでチャウシェスクが党の第一書記に就任。
 1966年、ルーマニアで、チャウシェスク大統領が人口増加策の一環として避妊具の販売、使用を禁止。中絶を受けられる女性の年齢を45才以上(72年には中絶可能な女性の年齢が40以上からに引き下げられた)で、4人以上の子供をやしなっている場合としました。
 1989年12月、チャウシェスク独裁政権打倒の革命が勃発、チャウシェスク夫婦は革命軍に処刑されました。
 1990年、ルーマニアで、チャウシェスク前大統領政権下では1967年以来中絶が禁止されていましたが、中絶禁止法が廃止され、希望者は合法的に手術を受けられるようになった。1月5日国際家族計画連盟(IPPF)は英メーカーが寄付したコンドーム4万個をルーマニアに向け緊急空輸すると発表。(チャウシェスク前政権が人口増加策の一環として1966年に避妊具の販売、使用を禁止して以来、やみルート以外で避妊具が持ち込まれるのは初めて)。

 

 日本では、ほんの少し前までは、国家権力によって避妊は厳しく取り締まられていました。

 

1868 明治1 1戊辰戦争始まる。
9明治改元
1869   5榎本武揚降伏。戊辰戦争終結
1873   1徴兵制公布。
1874   4台湾出兵。
1894 明治27 8.1清に宣戦布告、日清戦争〜1895.4.17日清講和条約調印
1904 明治37 〜05日露戦争
1914 大正3 8.23第一次世界大戦勃発、日本も日英同盟によってドイツに宣戦
1918   第一次世界大戦休戦協定
1937 昭和12 7.7盧溝橋事件(日中戦争勃発)
1939 昭和14 第二次世界大戦
1941 昭和16 12.8日本、ハワイの真珠湾攻撃で対米英参戦
1945 昭和20 日本、敗戦
 田辺聖子のエッセイで、(正確な引用ではなく、あくまでも、曖昧な記憶だけど)
「今、日本では若い男性が大勢いる。これは日本の歴史上、ものすごいことなのよ。今まで日本はずっとずっと戦争をしていたもの。 そのせいで若い男の数が本当に少なかったので、結婚できない女たちの怨嗟の声が日本中に響き渡っていたもの」
「日本で今まで男があんだけ女に勝手放題威張れたのは、女の数に比べて男の数が少なすぎたからよ。 今、女は大勢いる男から次々選べるから、女の力関係が強くなったのよ」
 思わずプッとふきだしてしまう。この解釈の当否は、私には分からないけど。一応、データをまとめました。
 明治、大正、昭和と戦争続き。これにさらに内乱や革命騒動まで含めるとものすごい争い続きだったのね。
 1922年(大正11年)、アメリカの避妊革命で有名なマーガレット・サンガーが来日したけど、日本政府は彼女に「滞在10日間のうち、産児制限というようなことは一切口外しない」という条件付で日本上陸許可。
 彼女に影響を受けた左翼たちは、産児制限の講演会をしたり産児制限相談所を開設した。 ところが警察によって、次々と閉鎖に追い込まれていったのです。
 そしてついに1930(昭和5)年末に内務省、「有害避妊器具取締規制」公布。1931年(昭和6)年初めに施行。
 医者の太田典礼が避妊リングの研究をしたけど、警官2名が踏み込み問答無用で取り上げ禁止をした。抗議をしても、「国策のため」と言って応じない。
 頂点の男が「突撃ーっ!」と号令をかけて、大勢の兵隊たちが人海戦術で消費させられた。大勢の男たちが、特攻隊とか人間魚雷とかで敵機体当たりで、使い捨て消耗品として大量消費されてきた。だからいくら人間があっても足らない。 
 国策として、避妊も、中絶も禁止された。厚生省、「人口政策要綱」提出。閣議で決定。「東亜共和圏の建設と発展に向け,内地では昭和三五年に一億人を目標とする」人口増加の具体的方策を微細にわたって規定。「産めよ殖やせよ国のため」、男は戦地へ、女は多産を(理想は5人以上)が戦争政策のための人口政策だった。避妊・人工妊娠中絶は事実上できない状態になった。

 

 

 かつて、避妊は、人々から罪悪視されていた。
 松沢呉一『ポット出版』の文章に敬意を捧げます。
 彼は日本のフェミニストたちがどうしてこうもダメなのか不思議で過去の文献を大量にあたった。平塚雷蝶(らいてふ)(1886〜1971)(明治19〜昭和46)の本を読み、避妊への嫌悪を知り、驚愕したって。
かつての避妊の先駆者マーガレット・サンガーも、国家権力や保守派と闘うだけじゃなく、一般大衆の避妊への罪悪感や嫌悪感とも戦わなくてはならず、さらに女性の人権を主張するフェミニストたちの中の避妊への嫌悪感をもっている反対派たちをも説得しなくてはならなかったのでしょう。
 日本でも、マーガレット・サンガーの来日と講演会で刺激された左翼たちが産児制限運動を開始したけど、一般大衆は避妊情報を得られると大喜びで殺到したというよりも、避妊への嫌悪を罪悪感を抱いていたのでしょう。国家権力の弾圧だけじゃなく、一般大衆を説得するのも大変だったのでしょう。
 私もさっそく図書館で『原始、女性は太陽だった』を読みました。もうビックリ!

平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』四巻の年表を読んでみましょう。

堕胎論議で発禁
 妊娠の事実は、いまさらのように、いろいろなことを考えさせます。みごもることのよろこびが、いっこうに胸にこないのはつわりの苦しみばかりではないのでした。
 母となることにも、自主的でなければならない。すべての婦人が母になるについて、自由をもつべきであるという考えのもとに、恋愛を肯定したのににも、なお母となることを避けてきたわたくしですが、それが、子どもがほしくなければ、自制すべきだという考えに支配されがちなわたくしは、全面的には避妊を受けいれかねるという、はなはだ不徹底な態度の結果、母となる十分の条件がととのわないうちに、心ならずも、母となる日を迎えることになってしまいました。それが、自分たち二人を、こんなに幸せにしている愛情の創造物であるということを知りながら、限りないよろこびとして受けいれることのできないのは、なんという矛盾だろうと悲しくもなります。
 つわりの苦しみに耐えながら、毎日、暗い思いのなかで、こんな貧乏のなかで、子どもが育つものだろうか、子どもを育てながら、自分たちの仕事が、勉強がつづけられるだろうか、個性を伸ばそうとする自分の生活と、母としての生活との間に調和がえられるものだろうか、こうしたさまざまの前途の不安が、やなり母となることを恐れさせるのでした。

 こんな思いのとりこになっているとき、たまたまやはり妊娠中の原田皐月さんが、わたくしとおなじような悩みのなかからまことに大胆な堕胎肯定論を、その月の「青鞜」(五巻六号9誌上に発表しました。それは、「獄中の女より男に」と題するもので、妊娠中のある夜の夢からヒントをえた創作だそうですが、堕胎罪をおかした女が、獄中から男にあてた手紙の形をとったものでした。

「女は月々沢山な細胞を捨ててゐます。受胎したといふ丈けではまだ生命も人格も感じ得ません。全く母体の小さな付属物としか思はれないのですから。本能的な愛などは猶さら感じ得ませんでした。そして私は自分の腕一本切って罪となった人を聞いたことがありません。」
親は始めから自分の継承者を世に出すなんて事は少しも意識しないうちに子供を産みます。少なくとも私はさうでした。そして勿論子供から産んで呉れと頼まれた事もありません。そんな無意識のうちに不用意のうちに、尊い一箇の生命を無から有に提供すると云ふ事は、然も其責任をまだ当然持ち得ないと自覚して居たとしたら、此れ程世の中に恐ろしい事があるでせうか。」
「罪を認めて居るものは法律で私ではなかったからです。」

 皐月さんのいおうとしていることは、けっきょく親として満足できる状態でないかぎり、親になるべきではない。そのためには堕胎もやむを得ない。それが法律にふれることであっても、自分の新年に従うほかないということで、いかにも皐月さんらしく、思いきったもので折が折だけに、わたくしも、相当ハッとした思いで一気に読んだものでした。

 女性が堕胎罪で刑務所に入れられていた時代のことです。堕胎罪は今でも残っていますが、中絶がある特定の条件付で法律で容認になったのは、アメリカとの敗戦後のことです。

 避妊への嫌悪。まだ子どもがほしくないくせに避妊せずにセックス。そして妊娠。まだ産みたくないから中絶して楽になりたい。
 そういうのが、あの時代の女性たちのやり方だったのでしょう。まずは避妊なんかよりも中絶への希求が先だったのですね。

 原田皐月の堕胎肯定に対して、編集者の伊藤野枝が批判。 

 まあ、私も、原田皐月のあの物言いにイヤなものを感じますけどね。
 自分の身体をどうしようと自分の勝手だ。お上に処罰させられるいわれはない! それは私も同意権だけど。酒、煙草、麻薬も自己責任で利用可で、警察が処罰すべきではない。ピルも自己責任で利用するもので、法律での禁止や規制には反対。中絶も、自己責任で、法律で犯罪にするものではない。
 でも、もう少し物言いがあるでしょう。こら、反感まねくわな。

 そうそう。「生田花世と安田皐月の「貞操論争」」
 生活苦から逃れるためには売春容認と主張したのが、西崎花世(後に詩人、生田春月と結婚)。
 安田皐月(後に宝塚歌劇団創設に関わる原田潤と結婚、離婚、自殺)は例え餓死しても売春反対。
 『青鞜』誌上で論争になりました。
 翌年(大正5年)には、安田皐月は妊娠し出産の恐怖から堕胎肯定して発禁処分。こういうところがな〜・・・。自分が出産の恐怖におちいると、堕胎肯定になるというところが、勝手というか。苦しみから逃れるためには、売春容認、堕胎容認なら首尾一貫しているんだけどねえ。自分は売春することは決してない者のおごりでしょうな。この人には、魅力が感じられず、他の弱者への想像力もなく、ただ単に自分勝手なエゴイストな匂いがするなあ〜。


(国禁の堕胎に対して、正面から挑戦した皐月さんのこの文章によって、「青鞜」五巻六号は、久しぶりに発禁処分をうけました。)


皐月さんのこの堕胎論に対して、エレン・ケイの母性主義を信奉する山田わかさんは、真正面から反対し、四周年記念号(五巻八号)に「堕胎に就いて」の一文を寄せました。
「私は堕胎も避妊も等しく大きな罪悪だと思います。
 個人の幸福、並びに国の栄を破壊する大きな不徳です。配偶を持つのは自由、天から付与された、人の権利なのですが、併し権利は享有して、其れから必然わいて起こる結果を処理する義務を逃れようとするのは最醜悪な卑怯です。」
「人間以上の力がつくった生命を殺し、のみならず親の生命をも危うくするやうな事柄を、人命財産の保護を標榜して立っている国家が、正当として許す事が出来ませうか・・・・」と、
法の立場を支持する意見を述べています。



皐月さんの、あの当時としては大胆不敵とも思えた堕胎肯定にはじまった一連の堕胎論議も、妊娠中絶という言葉で、平気で行われている今日の時代からしたらは、どのように見られ、受けとらることでしょうか。
 避妊問題についても同様です。一般的には、実際問題として肯定しなければならないと考えても、自分がそれを実行するということにはどうも抵抗がありました。いまは避妊は当然の個人の権利というように考えられていますが、当時はそうした視野はなく、まだ社会問題として論ぜられてもいなかったし、避妊の方法など実際的な知識を与えられる機会など全くなかった時代(「貴方の友」とかいう避妊薬のあることなどをなにかで知っていた程度でした)ですから、極めて不自然な、自分たちの愛を汚すような醜悪な感じがあって、そんなことをするよりもお互いに自制した方がましだという考えがあったように思います。日本で避妊が公然と社会的な問題となったのはサンガー夫人の来日(大正十一年)以降のことです。

1886(明治19)年   出生 東京の高級官僚のお嬢様。
1911(明治44)年 25歳 『青鞜(せいとう)』創刊。創刊の辞「元始、女性は太陽であった」を発表。このときより「らいてう」のペンネームを用いる。
1914(大正3)年   家を出て、奥村博と同居。結婚制度に反対し婚姻届を出さない、今で言う事実婚(1941年に55歳で婚姻届を出し奥村姓になった。お墓も一緒)。
1915(大正4)年   五巻一号より、『青鞜』の発行権を伊藤野枝にゆずる。長女出産。
1917(大正6)年   長男出産。
1919(大正)年 30歳 『青鞜』売上不振で六巻ニ号以降無期休刊。
1922(大正11)年 36歳 マーガレット・サンガー来日。平塚らいてう36歳です。
1971年(昭和46)年 85歳 死亡。

なんと当時としては過激な女権論者であった平塚らいてうでさえ、マーガレット・サンガー来日の36歳まで避妊の知識もないまま出産し避妊の権利など思いもよらなかったとは!

時代は変わる。人々の意識も変わる。今時、「避妊は罪悪」だとか主張しても嘲笑されるだけでしょう。

晩年の平塚らいてうも、かつての山田わかのあの避妊反対の主張など、戦後世代にとってはあまりにも奇異なものでしかないということはよく分かっていました。自伝で、山田わかの避妊反対の主張を、子供ができなかったからとかなりかばっていました。それでもね〜・・・。


 

 ほんの何十年か前なのに、こうも世の中の道徳が変わるか!
 私も昔は、宗教信者ってや〜ねってだけしか思ってなかったのね。でもこれ、宗教信者だけの問題じゃないのね。
「ポット出版」HPでの松沢呉一の連載が傑作なんだけど。 彼は、明治・大正・昭和時代の女性の権利を訴えた女性たちの本を大量に読破して発見したんだけど。 平塚らいてふ 「避妊してセックスするのは、愛を汚すことで、そんなまねをするぐらいなら、セックスしないほうがましって思ってた」 ってなことを書いていたのには驚いたって。昔は、大勢のフェミニストたちが、避妊に猛反対していて、 ほんの何十年かで道徳は変わる。平塚らいてふでさえ、時代が変わって、 かつてのフェミニストたちが避妊に猛反対していたなんてこと、 今の時代の人々には時代錯誤に思われるって理解していたから、なんとか必死で擁護していましたけどね。

 今でも、こういう考えの女性たち、いますよ。それか、基本はこれで、さらに今の時代風に改定されたようなのとかね。 私は、全く別の考えですけどね。
 それと、セイフ・セックスに反対していた方もいます。 同じエイズにかかってもいいってぐらい愛しているって人としかセックスするものではないって。 それで同じエイズにかかっても一生添い遂げたらいいのではって。
 モラルは、人によって、あまりにも多様すぎるから、特定のモラルを他の人々に強制するのはダメだと私は思いますよ。 あるモラルを持っている方が、他の方々に影響を与えて、それが世の主流になっていくというのなら、いいんですけどね。 ピルやコンドームやセイファー・セックスの全面禁止は、他の人々への一方的なモラルの押し付けですしね。

 昔は欧米でも日本でも避妊と中絶は犯罪として禁止されていました。
 日本でも、避妊と中絶の解禁を主張し運動するのもいましたが、たいした政治勢力にはなりませんでした。ほとんどの大衆は避妊に対して罪悪感と羞恥心をいだいしていたし、女性の権利を主張する女性たちでさえ「愛を汚す醜悪な行為」と積極的になれないのや猛反対するのさえいました。
 日本はアメリカ相手に戦争をして負け、アメリカの属国となり、アメリカのお偉いさん方の政策で避妊と中絶は解禁されました。

C・F・サムス著/竹前栄治編訳『DDT革命 占領期の医療福祉政策を回想する』(岩波書店)1986年8月11日

(Crawford F.Sams,Brigadier General) (1902-1994)

日本の戦後の避妊や中絶解禁の法律改正の歴史を調べると、サムスの名前が大きく出てくる。当時の日本の医学会では、それだけ絶大な権力を持っていたのね。大胆な改革をなさったのね。

連合軍最高司令官総司令部公衆衛生福祉局長クロフォード・サムス准将の回想録"Medic"1962, 749pagesので、この回想録の原文(英文)はスタンフォード大学フーバー研究所に未公刊のまま所蔵されているが、世界で初めて日本で刊行することになった。
全訳は紙幅の都合上それも叶わぬので、「第四部ー極東・日本」だけで、残りの部分解説者が要約。第一部ー戦前、第二部ー中東、第三部ー間奏曲、第五部ー朝鮮。全世界中の戦地を駆け巡って、すごい経歴の持ち主ですね。

「人口問題」の章で、戦前は避妊・中絶禁止だった日本でどうするかで、アメリカ本国の避妊反対派と家族計画推進派の政治争いに巻き込まれて困惑している様が描写されている。当時のアメリカでも近代的な避妊禁止の州が多かったとか。それでも日本で避妊を解禁したものだから、カトリックの避妊反対派の新聞で大々的に叩かれたとか。



日本の政治家で避妊、中絶の解禁を訴える方々もいました。アメリカ占領軍のお偉いさんに、避妊、中絶を要求しました。
女性のための避妊、中絶を要求するのなどたいした政治勢力にはならず、
「優生思想」
「母体保護」
「人口政策」
「経済的理由」
「混血児対策」
等と結託したのなら政治勢力になり、又アメリカのお偉いさん方の承認も得られたのでしょう。
戦前の「堕胎罪」は残存し、一応「経済的理由」「胎児が障害児の場合」なら容認ということになりました。

 敗戦後、戦地から帰ってきた男たちのせいで一気に大量に子供たちが産まれました。
 そしてその後、中絶の解禁のせいで望まない子供たちがたくさん中絶されました。
 1960年代初期には、今度は経団連から高度成長のために若年労働者の増加を要求する声が上がった。元々が、国家権力からしたら、女性の人権のことを考えて中絶を容認したわけじゃありませんでした。「中絶反対」の建前は「胎児の生命尊重」だけど。戦前からの「堕胎罪」があって、今まで「経済的理由」「胎児が障害児の場合」なら中絶が容認されていましたけど、「経済的理由なら容認」という項目を削除しようとしました。
 大勢の女性たちの反対運動のせいで、政府は中絶規制の法律を通過できませんでした。
 ただ、国家権力は、中絶期間短縮とうい手段を徐々に徐々に通過していく手段はとっていくようになりました。建前はあくまでも「胎児の生命尊重」だけど。中絶期間短縮の法律は、「少子化の危機!」とマスコミが大騒ぎするのと呼応していますね。

 

 敗戦直後、避妊方法はあまりにも貧しかった。1960年代初期まで、例年100万件もの中絶が行われました。妊娠の半分近くが中絶され、人口抑制政策は予想を上回りました。人口制限政策という権力の思惑を超えてしまったほど。
 1960年代初期には、今度は経団連から高度成長のために若年労働者の増加を要求する声が上がった。元々が、国家権力からしたら、女性の人権のことを考えて中絶を容認したわけじゃありませんでした。「中絶反対」の建前は「胎児の生命尊重」だけど。堕胎罪があって、今まで「経済的理由」「胎児が障害児の場合」なら中絶が容認されていましたけど、「経済的理由なら容認」という項目を削除しようとしました。
 大勢の女性たちの反対運動のせいで、政府は中絶規制の法律を通過できなかった。
 ただ、国家権力は、中絶期間短縮とうい手段を徐々に徐々に通過していく手段はとっていくようになりました。建前はあくまでも「胎児の生命尊重」だけど。中絶期間短縮の法律は、「少子化の危機!」とマスコミが大騒ぎするのと呼応していますね。

 

「日本人口減少の危機!」「日本人消滅の危機!」の大嘘

 

 

 

 

 

「家族計画」としての避妊と、独身女性の避妊

 

嫁入り前の素人のお嬢様の避妊 娼婦の避妊

 

 

日本独特の「モラル」 
 1945年の敗戦後、権力に容認されたのは、粗末な避妊(コンドーム、子宮内避妊具等)と中絶手術が先。
 そして1960年代以降に 「近代的避妊(ピル、子宮内避妊具、注射法、埋め込み式などなど)」が欧米で開発されても、日本では中々解禁されなかった。
 容認された中絶と避妊。禁止された避妊
 高級官僚様が容認なさったもの、高級官僚様の禁制のもの
 人々は高級官僚のなさることに平伏す。意識にすごい影響を与えられる
 日本の男の意識「中絶暦のある女と、避妊用ピルを飲んでいる女とでは、まだ中絶暦のある女のほうが可愛げがある。ピル飲んでいる女は遊んでいそうでイヤだ」
 避妊も中絶も反対の方
 避妊は容認、中絶は反対の方
 避妊はピルは反対、ピル以外の避妊(コンドーム)は容認、中絶は容認 ←日本独自の考え
 避妊も中絶も容認の方
 ピル反対派が「実は中絶も法律で反対すべきだという考えをもっている」というのは、日本ではそれだけでアウト!
  ピル反対派が「実はコンドームも含めてあらゆる避妊に反対」「コンドームは女性の身体に危害を与え子宮ガンになり、コンドームを過去に利用したことのある女性は、将来妊娠したら胎児が身体障害者になる可能性が高い」なんて主張したら、日本ではアウト!
 日本では、戦後、中絶がイビツな形式とはいえ容認され、何十年もの間、年間何十万人もの女性たちが中絶をしてきたという歴史の積み重ねがある。それがいいか悪いかなんてない! 中是経験のない者たち(含む私)も実感として感じている。今更「中絶は身体に危険だ」「禁止しなくては」なんて主張してもしょうがない。
 又、コンドームによる避妊も心もとないとはいえ、戦後何十年にも渡って利用されてきた。それが今更「身体に危険」「禁止しよう」なんて主張されてもしょうがない。

 

 日本の男の意識「中絶暦のある女と、避妊用ピルを飲んでいる女とでは、まだ中絶暦のある女のほうが可愛げがある。ピル飲んでいる女は遊んでいそうでイヤだ」
 日本のフェミニストってどうしてああもクソばっかりなんだ〜? 日本のクソフェミニストたちこそが、男性中心社会で植え付けられた性への罪悪感を疑いもなく身につけている。クソフェミどものピル解禁反対の論理がそうだ。

森冬実(1946年産まれ)
『からだのおしゃべり』(亜紀書房)1987年12月15日発行。
『女の体 私たち自身』(毎日新聞社) 1998年12月発行。
「避妊用低容量ピル解禁か?」という直前に、ただただピル解禁反対のためにだけ論理もへったくれもなくついやした駄本。
最後の締め

 常に避妊をしてあるからだでいることは、イコール「sexはいつでもOKよ」と受け取られ可能性がある。親しくなった男女の間では「避妊をどうするか」という話題が登場するだろうが、IUDをしていると、「いいじゃない、避妊をしているんだし」と、おざなりなsexになりがちだ。望まないsexも、しかねない。そういう話を聞くたびに、「IUDによる避妊をしているっていうことで、ワタシたち女は単なる穴になりさがってしまうのか!」と、ガクゼンとしてしまう。

でもそれって、あなたこそ、女性を見る視点がゲッスイんちゃうん? 
それと女性のセックスを被害者意識でしかみれないような・・・ 

武田玲子(1941年生まれ)医師 
避妊用低用量ピル解禁前からアチコチの雑誌で解禁反対を主張
解禁後も、アチコチの新聞や学校関係のインターネットのHP等で、ピル批判。特に「若い子には絶対使わせない」って。「すぐにピルを出すような医者は悪い医者。信用してはいけない」とか。でも私、にらんでいるんやけど、彼女の本音は、若い子らの性の活発化への嫌悪やないかなあ?

近藤和子(生年?)薬剤師 
避妊用低用量ピル解禁前からアチコチの雑誌で解禁反対を主張
新薬学研究者技術者集団 シグマ (HP) 機関誌「新しい薬学をめざして」掲載→「低用量ピルの危険性」(1999年6月)

 ピルと性感染症やエイズとの関係は、単に性道徳の乱れを招く恐れがあるという意味ではなく、ピルが免疫能を低下させるために、感染の拡大を招く可能性があるという視点からの検討を提言している。

 

 匠雅音『性差を超えて 働く女と男のための栄養剤』(新泉社)1992年 →「第二部 性交の社会学 11・大胆な避妊」 HP転載
 工業社会までの女性にとって避妊は、性交の時になって、はじめて考えることであった。性交するかどうかも判らないのに、常に避妊していることは、常に性交を予期していることである。それは男性の領域を犯すことだった。常に避妊した体をもち、性交の主導権を握ろうとする女性は、色情狂のそしりを免れなかった。もちろん、妊娠させても男性には何の責任もない売春婦は、淫らな存在そのものであった。例外は、片時も性交せずにはいられない、盲目で情熱的な恋人たちだけだった。

 工業社会までの性交は、男性から誘うものであった。だから、必然的に避妊の役割も、男性にあった。避妊に失敗し、女性を妊娠させると、男性は責任をとれと、当の女性からだけではなく、社会から要求された。今まで、多くの女性にとっての避妊法とは、性交を拒否することしかなかった。

性交は両性が平等にかかわるものだから、男性からしか誘うことしかできないこと自体が不自然である。台頭する女性は、人間性の全的な回復をめざした。男性と同じ性交する自由の獲得も、同時にめざした。そして、それを獲得した。それと同時に女性も、避妊の役割を男性と同等に、引き受けざるをえなくなった。その時、科学の進歩は、避妊するために、性交の時に特別な手続きをなくすことに、とうとう成功した。ピルによって、性交と避妊が関係なくなった。ピルによって女性は、常に避妊している体になった。

 

匠雅音『近代の終焉と母殺し』 HP
 男性が神を殺して以降、男性は好色となったが女性は淫乱にとどまった。しかし、女性が神殺しに参加してからは、女性も好色の世界へ入った。だからフェミニズムは、女性の性意識を観念の支配下へと誘い、

「はてしなく欲情し、はてしなく奪え!」123

と、女性も男性と同じ性交の自由、つまり性交しても妊娠しない体を求めて立ち上がった。ちょうどその時、偶然は女性に味方した。手軽で確実な避妊方法つまりピルの登場が、女性の好色さを支えて、それを加速したのである。ピルをのめば妊娠しない。ピルによって、それまで男性だけに許されていた性交の自由が、女性にも解放され始めた。わが国ではやっとピルが解禁されてた状態だが124、西洋諸国では女性は性交しても妊娠しない体を、すでに獲得している。

 情報社会の入り口に立ったわが国でも、やっとピルが解禁され、女性にとっても性交は観念の支配下に入り、女性も確実に好色化している。その社会的な表現が、純潔貞操教育の放棄であり、処女性の嫌悪であり、売春への素人の参加であり、出生率の低下である。すでに男たちは父を殺している。今、母が殺されている。近代の入り口で、男性が神を殺し父を殺したとすれば、電脳的機械文明の誕生と共に、女性が母を殺し神の死にとどめを刺している。

 

松沢呉一『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版)2000年
これは、売買春否定派を徹底批判した本。だけど、売買春否定派の論理は、ピル解禁反対派のクソぶりと一緒だ!
その筆頭が、宗教を根拠としたそれである。(中略)

続いて、既得権を失いたくない多くの男たちとそこに媚びる女たちの立場だ。(中略)

そして、もうひとつ、最もねじれて矛盾に満ちた立場がある。表向きは家父長制度を批判し、男女は平等であるべきとしながら、売買春を否定する立場だ。特に女たちに加えられてきた性の抑圧は、今も人々を呪縛している。家父長制度を壊そうとする女たち男たちが登場したことはいいとして、彼らは売春をする女たちを蔑視しないことでこの構造を否定するのではなく、売春をする女たちをなきものにすることでしか否定し得ないと信じ込んでいる。この点では、やはり売防法を支える発想でしかなく、売防法が一体どれほどの効果があり、どれほど女たちを解放し得たかを考えればおわかりのように、この発想は女性に加えられた性の抑圧を解くものでは決してない。
(中略)
彼らは「フェミニストだから、人権主義者だから、売買春、性労働を否定する」と思い込んでいるふしがあるが、そうではない。彼らは性の抑圧者だから、否定するのだ。

 


 

アメリカの反避妊中絶、日本の反ピル
rurikoさんからの情報です。感謝します。
カソリック原理主義者は、反堕胎・反避妊・反ピルで筋が通っています。カソリック原理主義から派生したのが、プロライフ運動。プロライフ運動はカソリック原理主義者を中核に含みながら、宗派色を表に出さないことで、「心情的プロライフ派」を取り込みつつあります。中絶経験者はいくぶんかは、プロライフ的心情を持っていますから。
日本の反ピル運動もプロライフ運動の影響下にあるのは明白です。
A Consumer's Guide to the Pill and other Drugs(2nd ed.)1997という本を見てみると、日本の反ピル運動の論理が、この本の受け売りに過ぎないことがよくわかります。参照文献のスペルミスまで引き継いでますから。そしてこの本を出したのがアメリカのプロライフ団体ALLです。日本の反ピル運動は、ALLとの関係は秘密なんでしょうか?
反ピルの論理だけ切り売りしようとすると、代替避妊法については明示できないというわけで。
 「最良の方法は、独身者なら禁欲。既婚者なら、配偶者に忠実であれ」なんてねえ・・・。これが目標なのね。そのために、例え、100%完璧に安全な避妊法、性病予防法や治療法ができたとしても、それでも全否定し「禁欲しろ」って言いたいだけなのでしょ。
 日本で、イビツな形ではあるけど容認されたのが中絶手術が先で、何十年も近代的避妊法は解禁されなかった。
 インテリがピルの害悪を主張されたら、未知のモノへの情報不足もあって、ほとんどの日本人が信じてしまう。
 
ALLが、日本で未認可の近代的避妊法や中絶薬などを、もっともらしい理屈で徹底批判されたら、こっちも知らないモノだから信じこんでしまう。
 ただ、コンドームまで全否定しているの、馬脚を表してしまったなあ。
 日本人にとっては、コンドームはとっくに解禁されていて、コンドームでの避妊方法はお馴染みなのね。これを、そこまで全否定されたら、驚く。ALLによる他の近代的避妊法や中絶薬への批判も、割り引いて聞かなきゃね、っていうことに気づいてしまった。
John Wilks『 Consumer's Guide to the Pill and other Drugs(2nd ed.)(ピルや他の薬品に関する消費者へのガイド)』(ALL)1997
「コンドームは女性の身体に危害を与え、コンドームを過去に利用したことのある女性は、将来妊娠したら胎児が身体障害者になる可能性が高い」とか。もう強烈!
反コンドーム派の論理

 

 


 

マーガレット・サンガーの謎


避妊が犯罪だった時代
避妊への罪悪感
女性のセックスへの憎悪
女性の人権、女性の性の解放のための避妊技術や情報伝達だなんて、資金が集まらない、政治権力にはならないでしょう。存在したことはいたけど、歴史の藻屑となって消えたのでしょうね。
マーガレット・サンガーが大金持ちたちからあれほどの資金提供を受け、政治的にメジャーになれたのは、はっきり言って、上層階級に媚び、優性思想や下層階級蔑視という欲情との結託をしたからでしょうね。
今のアメリカのメジャーな政治勢力
反避妊・中絶のゴリゴリ保守 VS 避妊と中絶の自由(+その実、上層階級に媚びた優性思想)

 

日本でも、古くから代々続く名門の医者で、避妊リング大田リングの開発者、戦後の政治家、大田典例。実は優性思想。
避妊や中絶の合法化を訴えた政治家たちは、優勢思想で、身体障害者を中絶するのをテコにして法案を通過させることができたたのですね。


マーガレット・サンガー 伝記

まだ避妊が禁止されていた時代

最初は社会改革運動

実はアメリカは、ほとんどが聖書根本主義のゴリゴリの保守派が多い。NYやハリウッドの華やかな男女関係だなんてごく特権的な少数の例外中の例外。

避妊は犯罪として厳しく禁じられていました。

欧米の中でも、オランダでは性に関して開けた部分があり、避妊は禁止されていませんでした。そこで子宮口に精子が入らないようにするペッサリーという器具を知り、それをアメリカで大勢の女性に広めようとして警察に逮捕されました。

最初の貧困時代の社会改革の同志である夫と離婚。
富豪の男性と二度目の結婚をして経済援助を得て、ペッサリーを製造する工場を創設しました。でもペッサリーには欠陥がありました。避妊の成功率が高くなかったのです。

 マサチューセッツ州でウースター研究所を設立した研究者グレゴリー・ピンカスがいました。彼は女性ホルモンの研究開発をしていました。
 サンガーはピンカスに女性のための避妊薬の研究開発を依頼しました。マーガレット・サンガーは大金持ちから金を集めて、経済援助をしました。その援助者の中には、大富豪キャサリン・マコーミックの未亡人もいました。
 グレゴリー・ピンカス(ユダヤ系)、チャン(中国系)、カトリック教徒のロックも協力して研究開発をしました。
当時マサチューセッツ州では避妊は犯罪でした。それでも極秘に開発をし、そしてついに開発に成功しました。それはついに1960年に認可されました。それは「ピル」として市場に販売され、世界中で大成功をおさめました。
 不幸なことに、ピンカスやチャンやロックは権利関係をキチンとしていなかったので、その名声は得ましたが、企業が大儲けはしましたが、その利益にはあずかれませんでした。


 彼女の伝記の正史。


 謎の部分。
★ まだ避妊が犯罪だった時代になぜ?
★ なぜ、大富豪から経済援助が得られたか。


 優性思想や下層階級への蔑視と結びついたからでは?

 

 

 


 

避妊、中絶、売買春、政治に関する年表(大まか)
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避妊や中絶の歴史上、重要な人物と組織

 

 

 

 

 

 

海外での女性たちの避妊

 

 


参考資料  本とかインターネットのHPとか